リー・クアンユー氏死去、91年の偉業とは? シンガポール国父はなぜ政治家になったか

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1990年に首相から引退、その後も上級相、顧問相として政権内に居続け、しかも2004年からは長男で現在の首相のリー・シェンロン氏が政権を担ってきた。「リー王朝」との批判もものともせず、「必要だからいるのだ」と主張してきたリー氏に、2011年、衝撃が襲う。5月に行われた総選挙で、国会定数87議席のうちPAPは過去最低となる81議席、かわって野党・労働者党が6議席を獲得した。しかも、閣僚経験者の有力候補も相次いで落選。数の上ではPAPが多数だが、実質的な敗北となった。

これには経済成長の停滞と、特に若い世代を中心にしたPAPの管理政治への不満が噴出した結果だった。当時の選挙戦で、リー氏は「野党を選んだことを後悔する」といった趣旨の発言をして、火に油を注いだこともあった。結局、この選挙結果をもってリー氏は、上級相のゴー・チョクトン氏とともに辞任した。他の政府機関からの役職からも退任し、ようやく政界から引退した。88歳だった。

「カリスマなきシンガポール」こそ彼の成果

リー氏はすべてが完璧だったわけではない。建国の父として賞賛されるに十分な成果を残したことは事実だが、限界があった。たとえば、シンガポールにおける芸術や文学といった文化を軽視したこと。経済発展には無関係と見なし、国民の間の心の発展には無頓着だったとも言えるだろう。そして、普通の国民の気持ちや能力を理解し、評価しなかったことだ。

彼は民主主義を唱えていた。だが、シンガポールの現実を考えると、西洋的な民主主義ではうまくいかないと言い続けてきた。その主張の影で、一般の国民が政治や社会についてどう考え、どう希望しているかという声をくみ上げることはなかった。その結果、2011年の選挙結果につながったことを、彼は理解していただろうか。

「たとえ病床にあっても、墓に入れられようとしていても、何かが悪い方向へ進んでいると感じたら、私は起き上がるだろう」。リー氏は、シンガポールの将来を問う質問にはこのように発言してきた。だが、すでにポスト・リー・クアンユー時代は深化し、彼のようなカリスマをシンガポールは必要としていない。将来を予測するのは難しいが、シンガポールの将来をそれほど悲観することもない。リー氏が再び、「起き上がる」ような国ではない。それこそ、彼が残した最大の成果なのかもしれない。
 

福田 恵介 東洋経済 解説部コラムニスト

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ふくだ けいすけ / Keisuke Fukuda

1968年長崎県生まれ。神戸市外国語大学外国語学部ロシア学科卒。毎日新聞記者を経て、1992年東洋経済新報社入社。1999年から1年間、韓国・延世大学留学。著書に『図解 金正日と北朝鮮問題』(東洋経済新報社)、訳書に『金正恩の「決断」を読み解く』(彩流社)、『朝鮮半島のいちばん長い日』『サムスン電子』『サムスンCEO』『李健煕(イ・ゴンヒ)―サムスンの孤独な帝王』『アン・チョルス 経営の原則』(すべて、東洋経済新報社)など。

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