モキイアはこの知的共同体が果たした重要な役割を強調する。ルネサンスの頃からこの文芸共和国はヨーロッパに超国家的な場を形成し、自国の枠を越えた規模を提供するようになる。
最高の人材を国同士で取り合う
制度の面で第2に重要なのは、国同士の競争である。
それぞれの国では権力者や利益団体からの抵抗や反対があったものの、国同士が競争をしていたためにイノベーションと創造的破壊が可能になった。
政治的に寸断されていたヨーロッパの国々は、最高の人材を呼び込もうと激しいつばぜりあいを演じる。
国内にイノベーションに反対する勢力があっても、他国に出し抜かれる恐怖が他の思惑にまさったわけである。
対照的に中国は他国との競争がなかった。このため、時の権力者が強い発言力を持つことになる。
かくして1661年に清朝第4代皇帝の康熙帝は、南岸沿いに暮らす住民全員に海岸線から15キロメートル以上離れた内陸部に移住するよう命じ、20年以上にわたりいっさいの航海を禁じた。
この禁止令は18世紀にも再び定期的に出され、外国との貿易を遅らせることになる。中国の歴代皇帝は創造的破壊が政治の安定を脅かすことを恐れたのだった。
中国では、皇帝が認めたイノベーション以外は許されなかった。しかもヨーロッパとは違い、皇帝に認められないからといってその発明家が外国に移住することはまず不可能である。
こうした絶対的な規制の結果、他国が工業化を果たす一方で中国経済は19世紀を通して20世紀初めまで停滞することになった。
イノベーションの知的財産権を保護する制度の確立は、成長のテイクオフの重要な要因である。おそらくこのことが、イギリスでまずテイクオフが始まり、フランスが出遅れた一因だろう。
イギリスが先行した理由は技術ではない。というのも18世紀には、両国の科学技術の水準は拮抗していたからである。
フランスが百科全書の国であることを忘れてはいけない。一方、財産権の保護に関してはイギリスが先行していた。
イギリスは1688年の名誉革命によって立憲君主制に移行し、議会が国王より大きな権限を持つようになる。このとき初めて財産権が政治的干渉を受けなくなり、イノベーションの機運が高まったのだった。名誉革命はフランス革命より1世紀早い。
そのうえフランス革命は、企業家やイノベーションに有利な新制度(ナポレオン法典の制定から第三共和政におけるジュール・フェリーの教育改革に至るまで)の発足になかなかつながらなかった。