福神漬VSたくあん「カレーのお供」巡る意外な歴史 いつから付け合わせに?背景を探る【後編】

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現在の洋食レストランでは、ライスのみを注文しても、福神漬のような漬物はついてきません。ところが戦前の洋食のライスには漬物がつきました。

これは和食の習慣が洋食に持ち込まれたからです。戦前の和食のご飯には、必ず漬物がついたのです。

それは、現在のように「おかずでご飯を食べる」のではなく、「現在の3倍以上の大量のご飯を、少量のおかずと、塩辛い漬物で食べる」ことが、戦前の都会の食生活の基本だったからです。タンパク質とカロリーを、おかずではなくご飯に大きく依存していたのです。

大正時代の急激な人口増による食事難民に対応するために、東京市は公営の公衆食堂を各地に開設、安い値段で東京市民に食事を提供します。その際に、1回の食事に必ず1.5合の米を提供することが規則として定められました。

1.5合の米をご飯にすると、牛丼チェーンの丼飯2杯。茶碗にすると3~4杯分。これが東京市が定める平均的な1食のご飯の量。当時の陸軍は1食2合でしたが、肉体労働を伴わない成人男性でも、1.5合=ご飯3~4杯を毎食食べるのが標準的な都会の食生活だったのです。

公衆食堂の朝食は、ご飯と味噌汁と漬物だけ。他におかずはなく、茶碗3~4杯分の山盛りの丼飯を漬物だけで食べます。

大量のライスを食べるための食欲増進剤だった

公衆食堂はカレーライスも出していましたが、そのライスの量は規定通りに茶碗3~4杯分。ライスの一部はカレールーで、残りは漬物で食べるというのが、当時のカレーライスの食べ方でした。

百貨店や須田町食堂も同じです。大量に出される洋食のライスは、その一部をカレーやカツレツなどのおかずで、残りは福神漬で食べました。福神漬は、洋食の付け合わせではなく、大量のライスを食べるための食欲増進剤だったのです。

昭和初期の漬物といえば、たくあん漬けが最も人気でした。ところが、百貨店や須田町食堂がカレーなどの洋食のライスに選んだのは、たくあんではなく福神漬でした。これには洋食の付け合わせであることと、大量のライスを提供する外食産業であったことが関係します。

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