北条政子「部下を動かす政治センス」のスゴさ 「頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」

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「鎌倉殿の13人」をより深く楽しむために、人気歴史学者の呉座勇一さんが北条政子の演説に秘められた類いまれなる“政治センス”について解説します(写真:Yoshitaka/PIXTA)
「頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」──鎌倉幕府の尼将軍・北条政子が御家人たちを前に語った大演説は、日本史に残る名場面の1つだろう。政子の言葉に奮い立った御家人たちは、後鳥羽上皇の軍勢を打ち破った(承久の乱)。
しかし、「承久の乱」が起きたのは、源頼朝が亡くなってから22年後のことである。なぜ政子はこの演説で、あえて頼朝の名前を出したのか。そして、御家人たちはなぜその言葉に従ったのか。
人気歴史学者・呉座勇一さんは、新刊『武士とは何か』で、北条政子の演説に秘められた類いまれなる政治センスを読み解いている。その一部を再編集して紹介する。
(前回:「平家にあらずんば人にあらず」放言した男の末路

鎌倉幕府最大の危機は承久3年(1221)に勃発した承久の乱だった。朝廷を統べる後鳥羽上皇が鎌倉幕府に不満を持ち、挙兵したのである。

後鳥羽上皇は西面の武士を組織するなど朝廷独自の軍事力を強化していたが、当然のことながら、幕府の軍事力にはまったく及ばないものだった。にもかかわらず、後鳥羽上皇が挙兵を決断したのはなぜか。上皇にはどのような勝算があったのだろうか。

後鳥羽上皇の義時追討令

実は後鳥羽上皇は「倒幕(幕府打倒)」を宣言してはいない。後鳥羽は、全国の守護・地頭に対して、鎌倉幕府執権(将軍の補佐役。幕府ナンバー2だが事実上の最高指導者)の北条義時の追討を命じている。

守護・地頭とは要するに鎌倉幕府の御家人のことである。後鳥羽上皇は討伐対象を義時に絞ることで、多くの御家人が幕府を裏切る事態を期待していた。

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