北条政子「部下を動かす政治センス」のスゴさ 「頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」

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建保7年(1219)に鎌倉幕府三代将軍の源実朝が暗殺され、犯人の公暁(実朝の甥)も殺された。頼朝直系の子孫は鎌倉からいなくなってしまった。

北条義時は皇族を将軍に迎え入れようと考え、朝廷と交渉をしたが、後鳥羽上皇に拒否された。そこで幕府は、頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の三寅(みとら)(のちの第四代将軍藤原頼経)を実朝の後継者として鎌倉に招いた。

しかし三寅は当時わずか2歳だったこともあり、すぐに将軍にはなれなかった。鎌倉幕府はしばらく将軍不在の状態を余儀なくされ、三寅の後見役である北条政子が尼将軍として力をふるった。事実上、頼朝が開いた幕府は北条氏の幕府になったのである。

強く反発した御家人も

鎌倉幕府の創業者である頼朝に仕えていた御家人たちにとって、頼朝の子孫に忠誠を尽くすのは比較的了解しやすいことだったが、摂関家出身の幼児に忠誠を尽くせといわれても、なかなか納得できるものではない。中には強く反発した御家人もいた。

その1人が三浦胤義(たねよし)である。胤義からみれば、三寅は北条氏が仕立てた傀儡(かいらい)で、同格の御家人にすぎない北条氏の命令には従えないという気持ちが強かった。胤義は頼朝の重臣だった三浦義澄(よしずみ)の子(義村の弟)で、自身も有力御家人だった。胤義は後鳥羽に接近し、挙兵を促したという。

源氏将軍の断絶と三寅の擁立によって、北条氏が幕府の実権を握る体制が明白になった。後鳥羽は義時追討令の中で義時を「幕府を好き勝手に支配し、朝廷を軽んじている」と激しく非難した。この文言も、北条氏に対する御家人の怒りをあおる作戦だったと考えられよう。

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