「小説の新人賞」に"根拠なきモテ設定"が多いワケ 名物編集者が今どきの小説をバッサリ斬る!
日本において努めてバカな人間を描こうとしている作家というと、コメディータッチのものを除けば、馳星周氏と戸梶圭太氏、そして月村了衛氏くらいのものだろう。
映画化された『溺れる魚』の著者・戸梶氏は、バカを魅力的に描いたサスペンスで知られており、直木賞作家・馳氏は、知性の低そうなメインキャラクターたちの虚ろさを、短いセンテンスを重ねることで、いっそ感動的に表現している。
月村氏の『欺す衆生』の場合は、自覚のない天才詐欺師と、低劣なその仲間グループを、意図的な「ボキャ貧」の枠内で描写することに注力し、かつ成功している。こうした例外的作品に、日本人はもっと学ぶべきではないか。
キャラクターは変化しながら動かす
キャラクター小説の書き方指南書では、いくつもの項目にわたって主要登場人物の属性を細かく設定しておくよう指導がなされている。その属性がマニエリスムそのものだという点以外、この方針に異論はないが、これが不動のものであり、作品の最後まで同じということになると首を傾げざるをえない。
主要登場人物、特に主人公に関しては、「成長」ないし「進化」をとげるのが一般的だろう。のちに論ずるが、例外はサイコパスか天才的探偵役のどちらかしかない。そうした「成長」や「進化」にはキャラ的な変化が伴われなければ不自然である。
進化や成長でなく「退化」するのでも構わない。副主人公が前半までは魅力を放っていたのに、後半になると急にメッキが剥がれ、別の脇役に取って代わられることが時として見られるが、こうした「退化」も見逃せないリアリズムの発現なのである。
病気持ちというのもキャラクターのうちに入れておくべきだろう。ヤク中で神経病みのシャーロック・ホームズや、末期ガンのため余命半年の刑事といったパターンならよく見かけるが、ある病気を持っているために特定の人生観が生まれたケースや、定期的かつ頻繁に加療が必要なために行動が著しく制限されるといったケースには滅多にお目にかからない。これらは立派にキャラクターとしての機能も備えているだろう。
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