それはそうと、なぜ、松下が、この米倉さんだけに散髪をしに行くのだろうかと、最初のころ、不思議に思った。それで、あるとき、その理由を尋ねた。すると、松下は、「いやな、あそこの主に叱られたんや」と言って、笑いながら、話をしてくれた。
「実はな、わしは、やつす(容姿を整える、つくる)ことを、せえへんやろ」
実際、松下は、身の回りについて、ほとんど興味はなかった。ネクタイも、服も、周囲の人が手渡すものを、黙々と身につけていた。
「それで、散髪も気にすることもなかったんやけど、あるとき、ある散髪屋さんと会ったんや。それが米倉さんや。そしたら、その人が“あんたは、自分の顔を粗末にしている。けど、それは商品を粗末にしているのと同じやと。会社を代表するあんたが、こんなことでは商品も売れません。あきません”と、こう言うんや。それを聞いて、もっともな話や。“あなたのおっしゃる通りや”と。そういうことで、“これからは、あなたのお店で必ずお世話になります”と、まあ、そういうことで、米倉さんのところに行くことにしてるんや」
松下を感心させた、主人の心意気
これと似たような話があることを、後日、知った。昭和39年秋に、松下は、1通の手紙を受け取る。札幌のメガネ屋さんの主人からであった。
「先日、テレビで、あなたの姿を拝見しましたが、あなたのかけておられるメガネは、あなたの顔に合っていないように思います。ですから、もっといいメガネにお取り替えになったほうがよろしいかと思います」
この手紙を読んだ松下は、熱心な人がいるものだなと思い、すぐ礼状を出した。翌春、札幌の経営者の集まりで講演したとき、その主人が面会を求めてきた。
「私は、この前、手紙を差し上げたメガネ屋です。あなたのメガネは、あのときと変わっていないようですから、私の手で直させてください」と言う。松下は、その主人の熱心さに感心して、すべてを任せることにした。
その夜、ホテルにやってきた主人は、見本として持ってきたメガネを松下にかけさせて、掛け具合などを丁寧に調べた。そして、「10日ほどで出来ますので、出来次第お送りします。しかし、これまでのメガネは随分と前のもののようですから、その後、あなたの視力が少し変わられたかもしれません。できれば、明日にでも10分ほどで結構ですから、私の店に寄って貰えませんか。調べたいのです」
10分ぐらいならと、日程をやりくりして、その店に立ち寄った松下は、「なぜ、手紙をくれたのか」と尋ねると、
「メガネは、よく見えるようにするためですが、それだけでは十分ではありません。メガネは人相を変えます。顔にうつるメガネをかける必要があります。特に、あなたは外国へも行かれる。もし、あなたが、あのメガネをかけてアメリカへ行かれたら、アメリカのメガネ屋に、日本にはメガネ屋がないのかと思われかねません。それは、国辱ものです。それで、あえてお手紙を差し上げたのです」
松下を「叱った」このメガネ屋さんは、札幌市中央区の「富士メガネ」。松下は、この話に大いに感心し、帰阪するとすぐに社員を集め、「お互い、このメガネ屋さんのような心構え、心意気で仕事に取り組みたい」と呼びかけたという。
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