鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算" 北条氏最大の政敵だが、権力基盤は意外にもろい
頼朝の嫡男・源頼家の乳付け役(初めて授乳させる役)に尼の次女(河越重頼の妻)が、そして乳母に能員の妻が選ばれたのだ。能員は、乳母夫となった。つまり、頼朝や頼家と非常に近しい立場に立つことになったと言える。
尼は鎌倉の比企谷に邸を持つことになるが、その邸で、北条政子は頼家を出産(1182年)していることからも、源家と比企氏の濃密な関係がわかろう。能員は平家追討戦に従軍したり、頼朝上洛の供をしたりしつつ、出世。頼朝死去後は、いわゆる「13人の合議制」のメンバーの1人に選ばれるまでになる。
頼朝が死ぬ前年(1198年)には、能員の娘・若狭局は、頼家の子(一幡)を産んでいる。比企氏と源家の縁はさらに深まったのだ。比企氏は源家とのみ縁戚になったのではなく、さまざまな御家人と婚姻関係を結んでいたが、そのなかの1人に北条義時がいた。比企朝宗(能員の義兄か、正確な続柄は不明)の娘・姫の前と義時は結ばれるのである。建久3(1192)年9月のことであるが、『吾妻鏡』に1つのエピソードが記されている。
源頼朝が仲を取り持った
まず、姫の前は「権威無双の女房」だったという。これは比企氏の娘であることが大きいし、姫の前が頼朝のお気に入りだったことによるだろう。それだけでなく、姫は顔も「美麗」だったようだ。よって、義時は結婚の1~2年前から、姫に恋をしていたという。
いわゆるラブレターを何度も出し、恋を成就させようとするが、相手にされず。その話を聞いた頼朝が、「『離別してはいけない』との起請文を義時から取るので、義時の妻になってはどうか」と仲介し、姫の前は義時に嫁ぐことになった。義時は30歳であった。
余談となるが、このエピソードを含め、義時のことを「何もしない人」「2年間、義時は待った」と評する見解がある。しかし、それはあまりに義時を受動的な人間、棚ぼたで成功した人と決め付ける一面的な考えではなかろうか。
義時は何もしなかったわけではなく、姫に恋文を何通も送っている。その話を聞いたからこそ、頼朝も動いた面もあろう。筆者は、義時は「何もしない人」ではなく、努力し考えながら動く人であると思う。閑話休題。
頼朝としては、北条氏と比企氏が自分の死後、頼家を守り立てる体制を作っておきたかったのだろう。だが、目論みどおりにはいかなかった。
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