「キャンセルへの恐れ」が招く知識人の表現自粛 物語が持つ「善悪二元論で決めつけたがる性質」
アメリカの分断の象徴ともいうべきある人物(トランプ元大統領)を著者は「ナラティブを操る類まれな才能で世界を支配した」と痛烈に批判するが、そんな自分自身もまた物語に操られていることに気づいている。誰もが善人である自分を主人公とした物語の中にいて、悪人と決めつけた他者を攻撃する。
左派ナラティブの神聖視が招く非難と排斥
自由な民主主義社会の分断についてさらに考えさせられたのは、著者の意外な告白を読んだときだ。この本を出すことについて著者は夜も眠れないほど悩んだという。著者が怒りを買うのではないかと恐れた相手は、赤いMAGAハットをかぶった「彼」の支持者ではなく、自分が属しているリベラル派だった。
主流メディアと学術界にはリベラル派が偏って多く、言論や研究にリベラルバイアスがかかっている、そしてこのバイアスが左派の言論に対する一般社会の信頼を低下させている、と著者は本書の中で指摘している。
だがこのような指摘はタブー視されている。左派のナラティブが神聖視され、それに関してうかつに異端の発言をすると非難され排斥されるからだ。キャンセルされるのを恐れて作家が表現や発言内容を自粛する知識人たちの空気も、狂信的な右派に劣らずポスト真実の世界に加担しているのではないか、と著者は懸念している。
アメリカだけの話ではないだろう。SNS上のやりとりなどを見ていると、自分とは違う他者にあまりにも不寛容ではないかと感じることがある。左右が攻撃し合うだけでなく、リベラルの中でも異端の意見が出ると「右寄り」のレッテルを貼って敵視するツイートを見かけ、二元論が幅を利かせている様子がいつのころからか気になるようになった。異なる他者との対話や共存をめざすよりも異物を排除しようとするかのような攻撃的な物言いに、多様性を認めず抑圧する力へのカウンターであったはずのリベラルがなぜこうなるのだろうかと思っていた(もちろん、少数派や弱者を抑圧する言論を「これも多様性」と強弁するのは言語道断だ)。
著者を悩ませた現象は日本でも起きている。人間は物語にとらわれやすく、物語は道徳主義的(悪人を名指ししたがる)で善悪が対立する構造を持っている、という本書の解説が腑に落ちた。著者はリベラル復権の願いを込めてあえて苦言を呈している。
人間は太古の時代から物語を愛してきた。単調で混沌とした現実を筋書のある物語として解釈したがるのは人間の本能といってもよい。人は物語なしには生きられない。反面、物語には人間社会をむしばむ毒もある。この矛盾をどう解決すればよいのか。最後に著者が提示した答えは……本書を読んでみてほしい。
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