「キャンセルへの恐れ」が招く知識人の表現自粛 物語が持つ「善悪二元論で決めつけたがる性質」
10年後、部族の違いを超えた若い男女のラブストーリーがラジオで放送され、聴いた人々の間で他部族に対する対立感情が小さくなる効果が見られた。とはいえ比較すれば、80万人の犠牲者を出したプロパガンダのストーリーの力のほうが圧倒的である。ストーリーに人間同士を融和させるよりも分断する力が強いのはなぜだろうか。
自分自身もまた物語に操られている
著者は物語科学というアプローチで物語の力の解明に挑んでいる。ほかの学者と共同で行った研究で、英文学の専門家たちに古典的なヴィクトリア朝小説の登場人物を評価してもらい、ヴィクトリア朝小説が善人(主人公)と悪人(敵役)に二極化した虚構の世界を表していることを確認した。たいていの物語が善悪の力関係を描いていることはすでによく知られており、この結果には目新しさはない。しかし著者たちは、人類学者クリストファー・ボームの研究をもとに、物語は「狩猟採集生活を送っていた太古からの道徳を表しているのではないか」という仮説を立てた。
本書ではさらに霊長類学者のロビン・ダンバーの研究から「人間の言葉はそもそも物語を語る目的で進化した、つまり部族のルールに誰が従っていて誰がそうでないかについてのゴシップ話をするためだった」、ゴシップは「道徳上の違反行為を取り締まることによって共同体が機能するのに役立つ」というくだりに注目し、それゆえに人間は「今までずっと道徳主義的な物語への依存症状態にあって、おそらくは治らない」としている。また著者は「物語(story)」の語源からも、物語に「道徳主義的で決めつけたがる性質」があり、「物語が出来事の中立的な記述ではなく、出来事に対する判断を表したものであることがうかがえる」と考察している。
人間が小さな共同体として暮らしていた時代には、内集団の人々が結束し、外集団の敵と戦うことが生き残りのために理にかなっていた。
しかし共同体の規模が国家の大きさになり、国家の中に多様な集団が内包されている時代に、人間の本能は追いついていない。全体主義国家は情報統制によって国民が1つの大きな物語の中にいるが、言論の自由な民主主義国家には小さな物語が無数に存在する。インターネット上のフィルターバブルに代表される閉鎖的な物語の中に人々が閉じこもり、異なる物語バブルの人々と対立しているのが、今アメリカで起きている国内の分断だと著者は言う。
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