20歳の若さで死亡「源頼朝の娘」生涯が悲運すぎる 婚約者の木曽義仲の嫡男を頼朝に殺されて病に

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5月1日には、義高の残党たちが、甲斐や信濃を拠点にして叛逆を企てているとのうわさが入ります。『吾妻鏡』には「義高が伴類」と記されていますが、これは義高の残党というよりも、木曽義仲の残党・家臣と見ることができるでしょう。

よって、頼朝はこの残党を討つため、軍勢を派遣することを命じ、小山・宇都宮・比企という有力御家人が討伐に向かいます。同じく相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人たちも5月10日には出兵するように、和田義盛、比企能員に命令があったといいますから、広範囲に動員令があったことがわかります。

義高殺害以降、大姫は悲しみのあまり、病となり、それはだんだんと重くなっていったようです。母・政子は娘の今の状態は、義高を殺した武士にあるとして、怒りを向けます。頼朝の命令があったとしても、もう少しやりようがあっただろうというのが、政子の言い分でした。

政子は、義高を殺した藤内光澄の首を切るよう頼朝に直談判。頼朝も言い逃れすることはできず、藤内光澄は斬首となります。これが6月27日のことでした。

大姫の病は「邪気」によるものと認識されていた

義高殺害以降、大姫は病に苦しんでいたようですが、建久2(1191)年11月には、病が治ったと『吾妻鏡』にはあります。日ごろの祈祷の効果があったのではと同書に書かれています。また、大姫の病は邪気によるものと認識されていたようです。

それから3年後の建久5(1194)年7月29日の夜、大姫の具合が突然悪くなります。「いつものこと」と『吾妻鏡』は書いていますので、状態はよくなったといっても、たびたびこのようなことはあったのでしょう。

しかし、このときばかりはかなり危ない状態になったようです。義高が殺されてから、大姫は衰弱し、ついにはこのようなありさまになってしまったのでした。 頼朝は大姫の病気平癒を仏に祈ったようです。

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