「カムカム」で注目、岡山学生服がシェア7割の訳 原宿にショップ、オーディションでモデル選出

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岡山県は晴天の日が多く、県のイメージとして「晴れの国おかやま」とアピールしている。この気象状況のもと、江戸時代から土砂の堆積で浅くなった海の干拓事業が行われ、塩気に強い綿花が児島(倉敷市)などで広く栽培されるようになった。そして明治に入ると政府の殖産興業政策により下村、玉島、倉敷といった地に紡績会社が次々と設立されていく。大正時代には足袋の製造が年間2025万足とピークを迎える。

日本で学生服が誕生したのは1879年(明治12年)のこと。学習院で詰襟の制服が採用されたのが始まり。1920年(大正9年)には京都の平安高等女学校(現在の平安女学院)でセーラー服が制服として採用された。岡山で学生服作りが始まったのは、ちょうどこのころだ。

児島で学生服作りが始まったのは1918年(大正7年)ごろだったという。角南周吉という人物が、当時、九州に出張して見かけた学生服の有望性に着目して家族とともに学生服作りに乗り出したという記録が残っている。

こんな話もある。日本人の洋装化を先取りした児島織物の創業者・家守善平は、1921年(大正10年)ごろ、シンガー製の足踏みミシン20台を購入して、男女学生服の生産に踏み切ったという。その後1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、アメリカから救援物資として大量の古洋服が国内に出回り、日本人の洋装化を加速させたというから、なるほど先見の明があったわけだ。

戦後に学生服製造は隆盛に

昭和に入ると大手も足袋作りから学生服生産へと転換を図っていった。足袋作りを通じて裁断や縫製の技術が蓄積されていたうえ、生産設備や労働力もあった。さらに国内に販路が形成されていたこともあり、岡山県というより、児島が「学生服の一大拠点」へと変貌を遂げたのである。

戦時中は大手の大半が軍の管理下に置かれ、軍服の製造を余儀なくされた。しかし、戦争が終わり、1952年(昭和27年)に東レナイロンが開発されると、学生服も合繊化が始まった。

素材がポリエステルとなり、児島の学生服製造はますます拡大。1963年(昭和38年)には、1006万着を製造して史上最高の記録を作ったのだが、その後は生産過剰、過当競争で業者の倒産が相次ぎ、1969年(昭和44年)には生産量が593万着まで激減した(※岡山県産業労働部産業振興課発行の『おかやまのせんいVol.3』の特集「岡山県の学生服の歴史」、菅公学生服のHP「カンコー博物館」を参照)。

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