その日、三菱自動車の社長は来なかった

「抜擢人事」の後に起きた裏面史を綴る

しかし、結果はやはり塚原社長が選ばれた。開票作業を行っているのは私ひとりなので、僅差で2位だった奥田トヨタ社長と順位を入れ替えようかともチラッと思ったが、さすがに事実を曲げることはできずに、そのまま結果を納会で発表した。すぐに三菱自動車の広報全員が席を蹴って退場。マン・オブ・ザ・イヤーの表彰状は誰にも手渡されることなく、破棄された。ちなみに1995年の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーの結果だが、何が受賞したのか全く記憶には残っていない。

そして三菱自動車は経営危機へ

三菱自動車は、翌1996年春に、米国子会社でのセクハラ事件が発覚したのを機に、一時の勢いが失われていく。1997年には総会屋への利益供与事件で、中村会長、木村社長が引責辞任。河添克彦氏が社長に就任するものの、2000年に発覚したリコール隠し事件で引責辞任し、会社存亡の危機へと陥っていくのである。

「いまさらなぜこんな古い話を」と、不愉快に思われた当時の関係者もいるかもしれない。しかし、あれから20年、三菱自動車が新しい経営体制のもとで復活するまでに辛く苦しい時代を過ごさなければならなかったのも事実だ。今だから、新聞に書けなかった当時の生々しい話を冷静に受け止められるのではないか。

企業が経営危機に陥る時には必ず経営陣にも原因があり、その兆候はかなり前から表れ始めているものだ。中村時代の黄金期と言われていた三菱自動車に第一線の記者たちは変調の兆しを感じていた。「FTO」の日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞をきっかけに始まった自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーには、そうした記者のメッセージが込められていたように思う。

なお、自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーは1996年7月付で筆者が自動車担当から建設省(現・国土交通省)担当になった後、詳しい話までは把握していないが今も細々と続いているそうだ。

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