その日、三菱自動車の社長は来なかった 「抜擢人事」の後に起きた裏面史を綴る

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一般紙などの経済記者によって選ばれる「自工会クラブ版カー・オブ・ ザ・イヤー」。自工会クラブとは、日本自動車工業会(自工会)が開設していた記者クラブ(現在は自動車産業記者会)だ。このことは限られた関係者以外は知らないはずだったが、『週刊新潮』にスッパ抜かれたために図らずも表沙汰になってしまった。事務局だった筆者が自動車担当を外れたため、結果的に2回しか経験しなかった「自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤー」の顛末を記録しておきたい。第1回「知られざる、もう一つのカー・オブ・ザ・イヤー」、第2回「日産『セフィーロ』が撮った“幻”の特賞」に続く最終回。(※第2回配信当初に「1月4日配信予定」と予告していましたが、都合により配信を早めました)
現在の三菱自動車本社(撮影:梅谷 秀司)

「今年はマン・オブ・ザ・イヤーもやりましょうよ」

ある記者の一言で、1995年の自工会クラブ版カー・オブ・ザ・イヤーは再び自動車業界に物議を醸すことになった。事前に情報を聞き付けた自動車会社の広報担当者が私のところに飛んできて「千葉さん、マン・オブ・ザ・イヤーをやるなんて、シャレになりませんよ。何とか、中止してもらえませんか」と泣き付いてきたのである。その会社とは、三菱自動車工業(現・三菱自動車)だった。

たかが年末の記者クラブ納会の余興として行うイベントにそこまで神経を尖らせた理由は何か。2014年、16年半振りに復配を果たし、経営再建を果たした三菱自動車の当時の内部事情を物語るエピソードとして記録に残しておく。

1995年は、自動車業界にとって激動の1年だった。前年から続く日米自動車交渉が最終局面を迎えようとしていた矢先の2月、日本自動車工業会(自工会)会長だったトヨタ自動車の豊田達郎社長が病に倒れた。事実上、社長空席のままで、岩崎正視トヨタ副会長が急きょ自工会会長に就任し、豊田章一郎トヨタ会長ともに日米摩擦の収拾を当たることになった。

5月にカンターUSTR(米通商代表部)代表が会見し、米通商法301条に基づき日本製高級車13車種の輸入に100%の関税を課すとの一方的措置の候補リストを公表。日米間で最後の攻防が展開され、6月末に辛うじて決着し、制裁は回避された。それを待って、トヨタ自動車では8月に社長交代を行い、奥田碩社長が就任。12年振りのシェア40%割れに直面していた国内販売の立て直しなどに取り組むことになった。

業界全体を揺るがす出来事の一方で、注目されていたのが国内販売で好調だった業界3位の三菱自動車の社長人事だった。当時は親会社の三菱重工業と同様に、社長交代が3期6年で行われるのが慣例となっており、1989年に就任した中村裕一(ひろかず)社長の勇退が確実だったからだ。後任には、中村氏と同じ開発畑の鈴木元雄常務が昇格するとみられていた。

予想だにしない仰天のトップ人事

そうした中で同社の社長人事をスクープしたのは日本経済新聞だった。その記事を読んで、自工会クラブの記者連中は飛び上がらんばかりに驚いた。

「塚原董久(のぶひさ)って、誰?」

記者クラブ内で各メディアの記者に聞いて回ったが、新社長に就任することが決まったと書かれている塚原氏に誰も会ったことがなく、どんな人物なのかも判らない。全く予想外の展開だった。

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