アサヒビールが取り込んだ「なだ万」の旨味 日本料理の老舗は大企業に身を寄せた(下)

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正幸は1949年生まれで、大学卒業後間もなく、なだ万の五代目女将・純子の娘、祐子と結婚した。西武百貨店に務めた後、1974年になだ万に入社。同社が大阪の今橋本店を閉じ、東京のホテルニューオータニ「山茶花荘」に移転したのがこの年だった。

純子が社長に就いた1977年、正幸は取締役本部長として経営陣に加わる。なだ万の『百八十年史』には、当時について、「すでにホテルへの出店展開を通じて老舗の料亭から日本食レストランという新たな業態への歩みを開始していたが、企業経営や組織運営の面では、まだ旧態依然に近かった」と書かれている。

急成長時に社長に就任

そこで経営の課題を洗い出し、幹部会議の創設や資材管理部の設置、新入社員の定期採用などが決定された。役員や店長、一部の料理長を交えた幹部会議の議長を務めたのが正幸だった。1980年に創業150周年を迎え、翌年には香港カオルーン シャングリ・ラ ホテルに海外1号店を出店するなど、海外展開にも力を入れた。80年代後半は国内のホテルでも出店を重ねている。 

1990年当時、グループ全体の売り上げは100億円が近づいており、従業員は700人を超えていた。売上高が50億円を超えたのが1986年で、正幸が社長に就いた前後は急速な成長を遂げていた時期だった。

 社長を4年余り務めた後、正幸は1993年8月に会長に退き、新社長には専務の津田暁夫が就任した。津田は、1961年になだ万が大阪で食堂部門に進出した際、「興銀ビル店」の出前としてキャリアをスタートした人物だ。純子社長の下では1979年に取締役に就任し、正幸が社長となった1989年から専務を務めていた。

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