アダム・スミスを誤解している人が知らない凄み なぜか評価が二極化している経済学者の重要性
さらにスミスの「見えざる手の原理」は、人間の同情は当てにならず、限りがあるせいで出し惜しみされるのに対し、自由市場は幸福の創出に寄与するという見方の表れだという。スミスの長い学究生活はこうした思想の追究に捧げられたのだが、これもまさにフリードマン自身と重なる。
だがこうした基本的な考察を示したところまではよかったが、フリードマンはここで困難に突き当たる。というのも、スミスはいま挙げたことと矛盾するように見える主張もしているからだ。
この点は否定できないとフリードマンは認める。たとえば金利に上限を設けるべきだと主張したし、国家にはある種の公共事業を実施し公的機関を運営する義務があるとも述べた。そこにはおそらく道路、橋梁、運河建設や学校運営が含まれるだろう。だがこうした主張はスミスの本質とは異なる瑕疵であって、全体の評価を押し下げるには当たらないとフリードマンはいう。
フリードマンは的外れ
(だが)フリードマンの主張の多くはまるきり的外れなのである。アダム・スミスは過激ではないし、革命家を自認していたわけでもない。それに、「規制が多すぎる」とも感じていなかった。この言葉が何を意味するにせよ、当時イギリスの植民地だったアメリカに該当しないことは間違いない。
さらに、見えざる手を「原理」であるなどとはつゆほども考えておらず、それどころか市場の働きを司る単一の原理があるとも考えていなかった。そもそもスミスは、市場がつねに人間の幸福に資するとも考えていなかった。さらに言えば、人間の同情や共感が本来的に限られているとか、だから出し惜しみする必要があるとも考えていなかったのである。
今日の世界では、先進国か発展途上国かを問わず、どの国も多くの経済的社会的課題に直面している。経済成長をいかに生み出しいかに維持するか、グローバル化と拡大する不平等の問題にどう取り組むか、歴史も社会的関心も宗教も異なるさまざまな社会同士が理解し合うにはどうすればいいのか……。
スミスの思想は、いまなおその大胆且つ明晰で単刀直入な着想と幅広い視野によって私たちを驚かせる。今日の世界が抱える課題に取り組むにあたっては、スミスの思想を広く深く理解することが欠かせない。スミスが何を考えたかだけでなく、なぜそれがいま重要なのかも理解し、彼の鋭い洞察を今日そして明日の問題に応用すべきだと強く感じる。
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