今も心に残る風景、北海道「消えた鉄路」の記憶 相次いで廃止された赤字ローカル線を振り返る

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1986年に廃止された胆振線。人影のないホームにたたずむ駅員と列車(撮影:南正時)
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国鉄時代の末期、全国の赤字ローカル線は次々と廃止されていった。1980年に制定された「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)は、輸送密度4000人/日未満の路線をバス転換が適当とされる「特定地方交通線」に選定し、このうち40線区が1982年度末までに廃止する第1次廃止対象路線となった。

そして、その廃止第1号となったのが北海道の白糠線(白糠―北進間33.1km)だった。筆者は当時、机上の計画であろうと高をくくっていた。だがそれは実行され、1983年10月23日に白糠線は廃止された。「まさか国鉄ともあろうものが……」。ショックだった。

この白糠線を皮切りに、北海道の赤字ローカル線は次々と姿を消した。

「白糠線」廃止当日の姿

最初に廃止された白糠線は戦後開業の路線で、戦前から根室本線の白糠を起点に弟子屈(現在の摩周)、二股を経て池北線経由で足寄までを結ぶ「釧勝線」として計画されていた。1964年10月に白糠から上茶路までが開業したが、沿線の上茶路炭鉱は1970年に閉山。貨物輸送どころか沿線住民も急激に減ったものの、政治家たちの思惑もあって国鉄は1972年9月に上茶路―北進間を延伸開業した。

しかし、過疎化に加えてマイカーの普及もあり、1981年に第1次廃止対象路線に指定された時には営業係数2872(100円稼ぐのに2872円かかる)という赤字路線として有名になるほどだった。同線は地元の大きな反対もなく1983年10月23日に全線廃止され、翌日からは白糠町営バスに転換された。

筆者はある鉄道雑誌で最終日と翌朝のバス転換の様子を取材したが、最終日の住民の鉄道に対する思いは「一度乗っておこうか」という冷ややかなもので、鉄道ファンの姿も少なく寂しいローカル線の終焉だった。

白糠線の後、国鉄は堰を切ったように第1次対象路線を次々と廃止した。除外規程はあったが、営業キロ30km以下の行き止まりの路線かつ輸送密度2000人/日未満、営業キロ50km以下で輸送密度500人/日未満というのがその基準だ。北海道ではオホーツク沿岸を走る興浜南線(興部―雄武間19.9km)をはじめ、渚滑線(渚滑―北見滝ノ上間34.3km)、相生線(美幌―北見相生間36.8km)など計8路線が相次いで廃止された。

次ページ当時の廃止対象線区をすべて取材
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