保育園「遅刻に罰金科すと、さらに遅刻増えた」訳 社会規範の影響が予想しない結果を招くことも
真珠湾攻撃直後の1941年12月10日、マレー沖海戦で日本海軍航空隊はイギリス東洋艦隊の主力戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを撃沈した。その際、東洋艦隊司令長官のトーマス・フィリップス提督は、脱出を促されたが「ノーサンキューと断り、艦橋で挙手の礼をしつつ、プリンス・オブ・ウェールズとともに海に沈んだ」とされた。
提督のこの劇的な最期は翌年3月4日の『読売新聞』に大々的に報道され、日本国民そして何より海軍軍人に大きな感銘を与えた。
大木毅氏によれば、実は、これは日本軍の捕虜になり、インタビューを受けたイギリス水兵によるまったくの創作だった。「ジョンブルは敗北に当たっても気高く振舞う」ことを吹聴したかったのだ。
実際、イギリス側の記録では、救命胴衣を着用した提督の遺体が戦艦沈没後に目撃されており、最終段階で脱出を図ったが水死した、とみられている。このため、フィリップス提督にまつわる上記の逸話は日本では有名だが、イギリスではまったく知られていない、という。
日本海軍の弱体化に拍車をかけた
問題は、フィリップス提督の劇的な最期にまつわる伝説は、社会規範の変化を通じてイギリス水兵が意図しなかっただろう甚大な影響を日本海軍に与えたことだ。
この創作された逸話により「司令長官(艦隊の指揮官)、司令官(戦隊指揮官)、司令(隊指揮官)はいずれも艦長ともども乗艦と運命をともにするべき」という社会規範が海軍に浸透した。
脱出できる状況でも艦と運命を共にした者が賞賛され、何らかの理由で生き残った者は白眼視され冷遇されるようになった。
指揮官たちは乗艦と必ず運命を共にすべしという社会規範は、長い歳月をかけて養成する必要がある指揮官級の人材減少を急加速させることで日本海軍の弱体化に拍車をかけた。
社会規範は大きく変化しうるが、それは日常生活へのささやかな影響のみならず、国家にも甚大な影響を与えうる。
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