前田利家「家臣にお年玉をねだる」超ドケチ事情 挙げ句の果てには「農民に行政を丸投げ」

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文禄元年(1592年)、秀吉の「朝鮮出兵」こと「文禄の役」が始まると、前田家は現代でいう100億円以上もの費用を負担し、バカげた戦に協力したようです。家中の財政は火の車となりました。しかしさらなる献金で秀吉を喜ばせたい利家は、文禄3年(1594年)の正月、「私への年始の挨拶には『礼銭』を支払うように」と言いだしました。地位に応じて200文〜1貫文に設定された“お年玉”を、家臣にねだったのです。

現代日本の貨幣価値に換算すると、戦国時代後期の1文=80円、1貫文=8万円に相当します。よって1万6000〜8万円の負担でしたが、仮病を使って挨拶にこない家臣もいました。

利家は「200文を惜しんで年賀の挨拶にこないとはけしからん」と家臣の薄情さを嘆いたそうですが、握手会にファンが集まらなくなったアイドルのような口ぶりで、なんだか笑ってしまいます。

なおこの頃の前田家では、節約の証として、和紙で作られた「紙子」の衣装の着用が家臣たちに求められていました。真冬の1月の話ですから、こちらは正直、笑えない話です。

秀吉のATMだった伊達政宗

次は、伊達政宗の金銭事情について。戦国時代の中でも極めて裕福だった“富豪武将”の一人が政宗です。

しかし、政宗は金に苦労した武将でもありました。なぜなら豊臣秀吉によってその豊富な財力をアテにされてしまい、事あるごとに搾り取られたからです。
秀吉は金塊だけで金9万枚、銀16万枚、評価額にして250万両を大坂城内に貯めこんでいたといわれますが、その一部は政宗からの献金であり、彼の涙の結晶だったことは知られざる事実です。

かつては秀吉からの臣従の命を無視してきた政宗が、(一説に)死装束をまとい、小田原の秀吉の前に現れたのが天正18年(1590年)夏です。秀吉は当時、後北条家を討つべく、小田原周辺に陣を構えていました。この時、秀吉の心を動かしたのは死をも覚悟で現れた政宗の気概、そして彼が「ご挨拶」として持ってきた金塊でした。

その場は丸く収まったものの、秀吉は何かあるたびに、忠誠心を試すような形で多額の出費を強いるようになりました。政宗は秀吉から、引き出し自由のATMのような扱いを受けるようになってしまったのです。

秀吉晩年の愚行として知られる「朝鮮出兵」こと「文禄・慶長の役」にも、政宗は数千人規模のボランティア出兵を命じられています。兵士たちの食費だけを考えても、負担額は凄まじいものでした。仮に伊達軍が3000人で、出兵期間が2年とすると、それだけで1万3000石あまりの出費になってしまったのです。

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