セレブが愛する「有名カメラマン」日本移住の経緯 世界の名だたるセレブ撮影してきたレジェンド

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その後、偉大なゴードン・パークスのような黒人写真家の作品を見て、スミスは写真を仕事にしたいと考えるようになる。そして1982年、スミスはジョージア州のアート・インスティテュート・オブ・アトランタに入学し、写真の勉強を深めながら、街中のスポーツイベントを撮影していた。

ある時、ローラースケートのマラソン選手を撮影し、その写真を有名スポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド』に投稿すると、「本当に買ってくれた!」とスミスは興奮気味に語る。

「初めての投稿を、100ドルで買ってくれたよ。それ以来、僕はキャンパスで話題の人となった。写真が売れただけでなく、スポーツ・イラストレイテッドから小切手が送られてきたのだからね。学生でそんなことはなかなかないことだよ」

背中を押した大学教授のアドバイス

だが、彼は卒業を目前にして、皮肉にもある教授の言葉をきっかけに退学してしまう。

「その教授は講義中、最も優秀な写真家はニューヨークとヨーロッパにいると言っていた」とスミス。「そして、若い写真家が本気で写真の世界に入りたいなら、ニューヨークやパリなどに行って、自分の仕事をしている写真家を見つけて、その人を手伝うべきだと言った。素敵なアドバイスだったね」。

サミュエル・L・ジャクソン一家のポートレート(写真:スミス氏提供)

スミスはすぐに行動に移し、アトランタを離れて青春時代を過ごした街、ニューヨークに戻った。1987年には次から次へと写真家のアシスタントを務めるようになった。最初の仕事はカタログカメラマンのアシスタントで、百貨店のJCペニーや、シアーズのカタログを撮影していた。給料は週に200ドル程度と、ハーレムにあるアパートの家賃を払うのがやっとだった。

しかし、一度業界の門を叩いた後は、別の機会に恵まれ、すぐにフリーランスとして有名なファッションカメラマンのアシスタントを務めるようになる。

「ニューヨークでは、アシスタントをしながら学んでいくんだ」とスミスは説明し、「多くの写真家と仕事をし、いろんな国に行ったよ。それまで旅行なんてしたことなかったのに、ヨーロッパ中の最新のファッションを撮影しに行き、世界中のモデルや雑誌編集者と会っていくうちにそういった世界が僕の中で定着していったんだ」

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