街の顔が大移転、千葉「超複雑」な駅の生い立ち スイッチバックだった国鉄駅、京成は別の場所
千葉に設置された鉄道第一連隊の任務をサポートするため、隣接地には鉄道機器をメンテナンスする材料廠や演習用の作業場が設けられていく。鉄道第一連隊の任務は年を経るごとに増し、演習用の作業場は1923年に千葉陸軍兵器補給廠へと敷地を拡大させつつ発展的に改組した。
千葉衛戍病院が開院した翌年には、鉄道第一連隊へ資材を輸送するための軍用鉄道が津田沼方面から延伸。軍用鉄道の線路は現在の千葉都市モノレール穴川駅付近からモノレールに沿うようにJR総武本線へと合流するルートで建設され、軍用鉄道の千葉駅からはスイッチバックするように軽便鉄道の線路が材料廠へとつづいていた。
軍事施設が集まったことで、半農半漁だった千葉町の主要産業は工業へと転換していく。そして軍事施設や工場で働く労働者が増えるのに伴い、千葉町の人口も増加した。
明治期から、県都・千葉町は市制施行を悲願にしてきた。人口増加を受け、千葉の政財界人は市への昇格を政府へ働きかけるようになる。当時は市制施行の条件の1つとして2万5000人以上の人口が必要だったが、千葉町は農漁村から工業都市への変化を模索していた1906年に、すでに人口3万人を突破していた。
それでも政府は千葉町の市制施行に難色を示した。その理由は、千葉町が他市と比べて税収が大きく劣っていたからだ。千葉町の税収が少なかったのは、高い未納率にあった。町は税制を戸数割付加税から家屋割付加税へと変更し、未納率を下げようとした。この税制変更は増税につながることから、町民から猛反発を受ける。それでも町は粘り強く税制変更を訴えかけ、1919年に問題は決着。こうして1921年に千葉市が発足する。
京成も成田より千葉を優先
千葉町の都市としての発展や人口増加は、鉄道にも大きな影響を及ぼした。
町が市制施行のために政府や関係各所とかけあっていた頃、京成電気軌道(現・京成電鉄)は多くの需要を見込んで路線計画を変更した。もともとは船橋から成田へと向かうルートの建設を推進していたが、それを後回しにし、現在は京成千葉線と呼ばれる船橋(現・京成船橋)駅―千葉(現・千葉中央)駅間を先に完成させたのだ。
同線も通る千葉市の稲毛海岸は、大正期から東京近郊ながら海沿いの別荘地として富裕層から人気を得ていた。稲毛海岸の人気を高めた人物はたくさんいるが、その筆頭とも言えるのが三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線)の社長も務めた神谷傳兵衛だった。
神谷は洋酒製造で財をなし、現在もシャトーカミヤの名前で知られている。神谷は愛知県幡豆郡出身という縁から三河鉄道への出資を求められ、そこから鉄道事業にも関わるようになった。
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