台湾の国会議員はなぜ「学生スパイ」だったのか 「ハッピーエンド」だけではない台湾の民主化の軌跡
ある生徒が学校内で何かのトラブルに見舞われたとする。日本では担任の教師が窓口となって対処するが、台湾では違う。これら軍人の教官が窓口になって対処するのだ。担任教師はサポートするが、メインではない。教師にとっては生活指導をしなくていいので負担が減り、生徒にとっては社会的にも怖い存在が直接指導することになるので、一見トラブルが少なく学級崩壊など無縁な気がしないでもない。しかし、学校の生活指導現場に官憲を介入させることは、未成年者をいきなり法によって裁くことに等しく、民主社会における教育スタイルではない。
そして軍人の教官らにはもう1つ大事な任務があった。生徒の思想的な監視と、中国国民党(国民党)入党の勧誘である。勧誘の対象になる生徒は、成績優秀者であるとともに、大人しい性格でなければならない。国民党の一党独裁時代、党員であるか否かは、とくに役場などの公務員関連の職場に就職した際には査定や昇進に関係するとされ、メリットが大きかったのだ。
密告が奨励された戒厳令時代
また、同じ頃、筆者の知り合いが台北市の総統府近くの大学で授業を担当していた際、普段は見かけない男4人が、授業に集中せずひたすら窓から大通りの方を眺めていたという。声をかけたところ、私服の憲兵だと名乗り身分証を呈示。大学から許可を得ているとのことから、仕方なくそのまま居させ続けたそうだ。
時は3月学運の真っただ中で、同校の学生も座り込みに参加していたこと。また、教室がデモ現場の台北市の中正紀念堂の近くでもあったため、重点監視対象となったのだろうとのことだった。日本の一部の大学では学生が教室に押し入って何かを主張することはあるが、官憲が入ることはない。しかし台湾の大学では当時、必要であればいつでも入る状況だったのだ。
1949年から1987年まで続いた戒厳令だが、関連の刑法は1991年頃まで続いていた。国民党による反体制派への弾圧や監視は、一般市民にも広く適用され、密告はとくに奨励された。このような相互を監視する方法の起源は、国民党がまだ中国にいたころから特務として辣腕を振るった蒋経国・元総統にあり、ソ連に留学し同国の軍の政治工作部門に学んだことに由来するとも言われている。
行政院(内閣)傘下の独立機関で、国民党の一党独裁時代下で行われた政治弾圧や人権侵害の真相究明を目指す「移行期の正義」を進める「移行期の正義促進委員会」(促進転型正義委員会)によれば、80年には台湾全土に3万人以上のスパイが配置されたという。監視は、学校などの教育機関をはじめ、法曹界、政界、ビジネス界、芸能界など、さまざまなところで行われた。黄氏のように脅迫じみた勧誘で情報提供者になった者もいれば、利益のためになった者、愛国心からなった者などさまざまなで、重要監視に指定されたところに配置されたスパイには、報酬として、毎月1000~2万元(1元は約4円)が支給されたそうだ。
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