「信頼できる政治家」2000年前に語られていた本質 古代ローマ「祖国の父」キケロの今にも遺る言葉

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もしもあのキンナ(注5)時代や、かつての暗黒時代に幅を利かせたような悪党やならず者どもによって国家が支配されていたなら、どんな報酬でつられても(わたしにとって報酬は、どれだけ個人の得になろうがほとんど意味がない)、どんな脅しをかけられても(きわめて立派な人でさえ我が身の危険を恐れて動く可能性があることは認めざるを得ないが)、わたしが彼らに味方しようと思うことはなかっただろう。

*(注5)ルキウス・コルネリウス・キンナ。貴族の家柄であったが、元老院の権力に歯向かい、ローマの将軍スッラと対立した。3年連続(紀元前86~紀元前84年)で執政官をつとめたが、部下の反抗にあい、スッラ攻撃を計画中に殺された。

しかしローマで一番の実力者はポンペイウスだった。彼は国家に最大級の貢献をし、戦勝を重ねることで、あらゆる栄光と名誉を次々と手にしたのだ。

わたしは若いころから、そして法務官や執政官の任期中も彼を支持していた。今度は彼が、ちょうど君がしてくれたように、助言と、元老院での発言力をもってわたしを支援し、目標を達成できるよう手助けしてくれた。彼が敵対していた同じ人物と、わたしはローマで対立した。

こうした諸々の事情を考えてみると、演説中に時折、彼への支持をまわりに呼びかけたことがあったとしても、それは変節したとの批判を恐れてしたことではない。

彼が非常に立派な人物だったから、そしてわたしにとって恩人だったからそうしたのだ。

(中略)

頑なに自分の立場を変えないという無責任

さて、わたしが彼らの状況や理念を擁護し、あのような政治的行動を取った理由は、もうわかってもらえたかと思う。はっきりさせておきたいのは、彼らからの圧力を感じなかったとしても、まったく同じことをしていただろうということだ。

わたしはあのような手ごわい同盟と争うほど馬鹿ではなかったし、有力な市民が影響力を行使する権利を否定するのは、たとえできたとしても嫌だったのだ。

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状況がたえず進展し、善き人々の考え方が変わっているときに、頑なに自分の立場を変えないというのは、政治においては無責任なことである。

どんな代償を払ってでも1つの意見に固執することが美徳だなどとは、大政治家はけっして考えない。航海中に嵐が来たら、船が港に着けない以上は追い風を受けて航行するのが最善策となる。

針路を変えれば安全を確保できるのに、方向転換をしながら最終的に母港を目指すのではなく、もとのコースをそのまま突き進むなど馬鹿だけがすることだろう。

それと同じで賢明な政治家は、何度も言うようだが、自国の名誉ある平和を最終的な目標とするべきだ。言葉は一貫していなくても良いが、目指すところは一定でなければならない。

マルクス・トゥッリウス・キケロ 古代ローマの政治家、哲学者、文筆家

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Marcus Tullius Cicero

紀元前106年〜紀元前43年。古代ローマの政治家・哲学者・文筆家。ローマ帝国の南に位置する街アルピーノで騎士階級の家に生まれる。シチリア属州判事時代に政治の腐敗を雄弁かつ鋭く指摘、その後、数々の官職を経験し、紀元前63年に執政官(コンスル)に選ばれる。カエサルの後継者マルクス・アントニウスと反目したことで、アントニウス側の手によって命を落とす。存命中はその卓越した文才を生かし、『国家論』をはじめ、政治や倫理、宗教、老いなど幅広いテーマで著作を記した。

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