穴だらけの「子供にネット与えるな」論 倉敷誘拐事件が起きたのはケータイのせいか
いやいや新聞は何度でも読めるだろうと思われるかもしれないが、実際に新聞を数日後にもう一度じっくり読み返す人は少ない。毎日毎日必ず送られてくること、そして紙面には自分の興味とは無関係に大量の情報が載っていることから、常に新しいところを読みたがる。以前読んだことがある部分など、読んでいる場合ではないほどの量なのだ。
一方でネットのニュースは、内容自体は紙の新聞と同じであるかもしれないが、複数のソースが読めるために、1つのニュースをより多面的に知ることができる。また、知りたい情報がより詳しいニュースも探すことができるため、疑問点を解消しやすい。
逆に一過性のニュースソースでは、検索性の低さから疑問部分は想像で埋めるしかなくなり、自分なりのつじつまが合うようにシナリオを再構成してしまうことで、事実から離れていってしまう。
昔の大人は、たいていみんなそうであったわけだ。だから昔の飲み屋は、ニュースを巡ってよく喧嘩になっていた。すべてのニュースに個人の解釈がついて回るからだ。
いまどき、「一事が万事」はナンセンス
では2(ひとつの事例だけで全体を判断しようとしている)について検討してみる。重大犯罪をきっかけにケータイの所持を規制するといった考え方は、正しいのだろうか。今回の事件は無事保護されたので、深刻な問題とはなっていない。したがって例として取り上げやすいのは、不幸中の幸いである。
言うまでもなく、この事件をきっかけにケータイを規制するという考え方は、的外れである。まず事件の因果関係とケータイは、無関係であるからだ。そもそも事件の時系列をたどってみてもわかるように、この事件はまず不審者情報が先にある。ケータイがあってもなくても、起こった事件であった。
たったひとつの事象を捉えて、全体のあり方を批判するという方法論は、まだ情報が十分ではなかった時代のやり方だ。言い換えれば、全体像がよくわからないから、ひとつのことを取り上げ、これが全体に当てはまるのではないかと推測する。あくまでも、カンの世界である。
だがそれを実行するには当然リスクがあり、そう簡単には実行に移らない。だからその世代に生きてきた人たちは、「言うだけ言ってみる」という行動を取りたがる。自分の策が当たったらもうけもので、それ見たことかと言うことができる。言ってなければ、自慢もできない。
年配者が子供のケータイ所持を規制したがる原因は、ほかにもある。それは、携帯電話、もっというとネットを使ったコミュニケーションは、自分の理解の範疇を超えているということだ。
しょせんは友だちごっこだろ、やめてしまえ、というのは、今の子供達にとっては酷な選択であることが理解できない。実はその講演では、その点を時間をかけて説明したつもりなのだが、オマエ1時間もなに聞いてましたかと思わず言いそうになった。
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