「ドーナツキング」と呼ばれた男の波乱万丈人生 カンボジア難民がアメリカで栄光と挫折を知る

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当時のアメリカは、オイルショックの影響やベトナム戦争で疲弊し、不況にあえいでいた。当然「カンボジアの難民を受け入れるよりも、自国民の失業問題を考えるべきだ」という声はあったが、共和党のフォード大統領はカンボジアのケースは危機的状況であると訴えかけ、「アメリカは移民の国であり、経済状況は関係ない」という人道的な理念のもと、カンボジア難民に門戸を開くことを決めた。慣れない異国の暮らしに最初は不安を抱えていたというテッドたち家族も、地元の教会が身元を引き受けてくれることとなった。

テッドが切り開いたカンボジア系のドーナツ店は2世、3世に受け継がれ、SNS時代に合わせた新商品を生み出している © 2020- TDK Documentary, LLC. All Rights Reserved.

彼らのアメリカでの新たな人生が始まったわけだが、そんなある日、自身が働いていたガソリンスタンドで、なんともいえない、いい匂いに誘われる。同僚に聞くと、「それはドーナツショップだよ」という答え。テッドはドーナツとの運命の出会いを果たすことになる。

さらにそこで見たドーナツ店が、夜中でも繁盛していることに可能性を感じ、「自分もドーナツ店を開きたい」と思い立つ。車社会であるカリフォルニアでは、朝の通勤時にコーヒーとドーナツを買い求め、車の中で食べる人が多い、という背景もあった。

積極的で、好奇心にあふれていた

彼は早速、業界大手チェーンの「ウィンチェルドーナツ」で修業を開始。3カ月で店舗責任者に昇進し、そして翌年には「ウィンチェルドーナツ」と掛け持ちで、妻の名前から命名した自身の店舗「クリスティ」をオープンさせる。

テッドの経営モットーはとにかく経費削減に努めるということ。子どもも含めた家族全員で一丸となって働くことで人件費を浮かせ、さらに他店が使用していた白い箱ではなく、当時、格安で手に入ったというピンクの箱を使用するなど、コストカットを徹底的に行ったという。

商才に長けていたテッドは、自身の店が成功するという確信を持って、朝から晩まで休みもなくがむしゃらに働いていたという。ただ、英語が得意ではなかった。そんな夫をサポートしたのは、社交的な妻のクリスティだった。彼女が地域の懸け橋となってくれたおかげで「クリスティ」は繁盛していく。

映画の冒頭には「ウィンチェルドーナツ」の製造主任で、研修の際にテッドを指導したというメル・アリソンという人物が登場する。そこでテッドとの再会を果たしたアリソンは「最初の1週間で成功するとわかったよ。人の話を素直に聞いていたからね。積極的で、好奇心にあふれていた」とテッドの勤勉さを称賛する。

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