高額運賃の北総鉄道「大幅値下げ」は簡単ではない 「黒字」の損益計算書からは見えない事情がある
とはいえ、北総にも苦しい時代はあった。1979年の開業から1999年度まで20年間赤字続きで、累積損失が最大447億円に達するなど過去、幾度も経営危機に陥った。1990年以降だけでも同年に7.4%、1995年に11%、1998年に10.1%の運賃値上げを実施している(消費税増税に伴う運賃改定は除く)。
北総鉄道企画室は「千葉ニュータウンが徐々に発展していくにつれて、当社の利用者も増加し、2000年度に黒字転換することができました」と説明するが、利用者の増加だけでなく、利用単価である運賃の値上げも黒字化に大きく寄与したと言えるだろう。
こうした黒字経営を背景に、北総線はもっと値下げできる、値下げすべきとの論調は根強いが、その実情は損益計算書からは見えてこない。それは後述するとして、まずは北総線の運賃が高くなった3つの要因から見ていこう。
ニュータウン開発の遅れが響く
第1はもともとの方針だ。北総は1972年5月に京成電鉄の子会社「北総開発鉄道」として設立された。同年8月発行の専門誌『交通技術』によると、当時の京成電鉄企画室長は北総について「事業収支の基礎となる運賃は、比較的高いものを想定している。(中略)この鉄道の開通によって、利用者は、低廉・良質、かつ交通便利な住宅を取得できるので、相対的に高い運賃でも、全体的な住居費は割安なものになると考えている」と記している。
実際、1979年に北総線が開業した時の初乗り運賃は110円。親会社である京成電鉄の同年の初乗り運賃は70円だから5割以上高かった。新線建設コストのうち、ある程度を利用者に負担してもらうという方針は当初からあったわけだ。
第2は開発の遅れだ。1966年に千葉県が公表した千葉ニュータウン開発構想は、高度経済成長下の住宅難を背景に、北総の未開発地に計画人口34万人のニュータウンを建設するというものだった。しかしオイルショックによる経済情勢の変化や、土地取得の遅れなどの影響で開発は予定通りに進まなかった。
1977年4月25日付の朝日新聞は、北総の見立てとして「ニュータウンの3分の2が完成して20万人が住みつく昭和60年(編注:1985年)には収支トントンとなり、以後は黒字にもっていける」と報じているが、計画人口は1986年に17万6000人、現在は14万3300人へと下方修正され、実際の人口も10万人程度にとどまっている。
ニュータウンの鉄道整備は難しい。都心へのアクセス手段がなければ住民は増えないし、一方で住民が増えなければ鉄道事業の採算がとれないからだ。そこで北総は2段階に分けて鉄道を整備することにした。
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