人事に翻弄された菅原道真「学閥出身者」の悲劇 栄光と転落の人生に見える「嫉妬」の影
菅原道真を通して見る平安時代の「人事」問題
「学問の神様」として名高い菅原道真が大宰府で亡くなって、およそ1120年。道真の59年の生涯はそれ自体が「人事」の日本史の格好の素材と言ってよい。本項では道真の栄光と転落の人生を通して、平安時代の生々しい「人事」問題を垣間見ることにしたい。
道真が誕生したのは845年。父親は晩年に参議にまで昇り詰めた是善だ。菅原氏はもとは土師氏と称しており、天武天皇が制定した「八色の姓」で第三位の宿禰を賜っていたから、辛うじて五位以上に昇進できる資格はもっていたことになる。
だが、天皇家と密着し、「人事」でつねに有利な条件を占めていた藤原氏とは異なり、土師氏のような氏族が政官界で生き延びるには種々の知恵と努力が必要だ。781年、道真の曽祖父古人が桓武天皇に願い出、土師宿禰を菅原朝臣(菅原は一族の本拠地)に改めたのはその表れだった。土師氏改め菅原氏は学問で身を立て、政官界に打って出ようと決意したのだ。
だから、道真は幼少の頃より父から厳しい教育を受け、さらに父の門人、島田忠臣からも詩文の指導を受けた。彼は後に、この忠臣のむすめ宣来子を娶っている。
道真にとって恵まれていたのは、菅家廊下と呼ばれる勉学の場を身近にもっていたことだ。これは彼の祖父清公が開いた私塾で、政官界に多数の有能な人材を輩出した。菅家廊下とは文字どおり、それが菅原氏私邸の廊下にあったことに由来する。長い廊下が教室に当てられ、廊下の北側には書庫が、廊下の突き当たりには後に道真の研究室兼応接室が置かれた。
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