日本でこのような国民の心情に配慮した死者追悼を寡聞にして知らない。ここにこそ為政者のメッセージが刻印されているといえる。つまり、たとえ「人災」の側面があったとしても、悪いのは人流を抑制できない国民であり、協力的でない民間の医療機関であり、犠牲者のことなどどうでもいいのである。
わたしたちは、かなり前からこのことに気付いていたはずだ。経済学者のジャック・アタリが言っていたように、「指導者は、自分たちを守るためになすべきことをしかるべき時期に実行しなかったのではないか」という疑念はすぐに確信に変わったのではないだろうか(『命の経済 パンデミック後、新しい世界が始まる』林昌宏・坪子理美訳、プレジデント社)。
シワ寄せを受けるのは社会的に不利な立場の人々
これら一連のコロナ対策のシワ寄せを受けるのは、とりわけ感染しやすい就業環境で働いていたり、重症化の因子となる基礎疾患を持っていたり、いまだワクチン接種を受けられなかったり、さまざまな理由によって社会的に不利な立場にいる人々である。
そこで、いっそのこと日本が崩壊してしまえば、そこから新しい世界が立ち上がるなどといった願望とも予言ともつかない観測にすがる傾向が出てくるが、これはあまりにもおめでたい希望的観測だろう。個人化した快適な生活というバブルに閉じてしまったわたしたちは、真に何が重要な事柄なのかを見定める以前に、自分の運のよさを日々のニュースを一瞥することで確かめ、同情と憂いのため息をついてみせるのが関の山であり、具体的なアクションを起こすには至らないからだ。
そういう意味において東京五輪で注目された「バブル方式」という概念は、すでに人々の間に定着していた、数多の階層や、健康状態、情報環境などによって囲い込まれ、泡(バブル)の膜で外部を遮断する処世を、目に見えるグロテスクな形で再現した模倣にすぎなかったといえる。
要するに、その真意とは、どれだけ社会が悪化しようともバブルの中にいる人々は痛くもかゆくもなく、パニック映画のようなわかりやすい破局はついに訪れず、統計的に犠牲者だけが緩慢なペースで増えてはいくものの、それは別のバブルで発生した避けられない悲劇のように受容され、総体として社会は問題なく継続していく極めて不愉快なものなのである。
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