ポスト伝統的な秩序の下では、「根本的懐疑の原理が制度化されており、そこではすべての知識は仮説のかたちを取らざるをえない」(同上)。つまり、身体の健康についていえば、どのような運動や食事などが適切なのかという専門的な知識はつねに更新されており、しかもエビデンスに基づく多様な理論が飛び交っている。いかなる理論も現時点ではという留保が必ず付くのである。
そのような不確かさが時代の進展とともに高まるにつれて、私たちは「自らの心身をうまく調整し、コントロールすること」がますます重要になってくるというわけだが、これはさまざまな人間関係のサービスへの置き換えを含む生活の市場化と、それに伴う消費者的な思考の広範囲への浸透も影響を及ぼしている。
真に安住できる場所が「身体だけ」に
家族や友人、仕事や報酬といった事柄が本質的に不安定なものとなり、短期的な見通ししか立てられず、重大なトラブルに見舞われた際に支援を期待できないものに変貌しつつあることが、私たちにとって真に安住できる場所が「身体だけ」になりうる状況をもたらしているといえるのだ。
社会学者のジグムント・バウマンは、「消費社会では、身体は究極の価値ということになっている。身体の状態が良好であることは、どんな生活上の営みにおいてもつねに至上目的である」と述べ、「身体は、生活世界においてほかに比するもののない独特の地位を与えられた」と主張した(『リキッド・ライフ 現代における生の諸相』長谷川啓介訳、大月書店)。
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