原作ファンが怒る「ざんねんな映像化」頻発の背景 原作者は映像化にどこまで口出しできるのか
原作者にとって初めての映像化は、おおむねこんな経緯をたどります。ジャンルは青春ミステリーのはずだったのにオカルトホラーにされた、小学生の主人公が高校生にされた、舞台が西洋から日本に移されたなど、枚挙にいとまがありません。
一見、原作に沿った設定に見えても、小説のスピリッツをまるで理解しておらず、極めて不自然な映画ができあがったりもします。プロデューサーが原作小説を映像化したかったのではなく、彼らの作りたい作品は別にあり、それを成立させるために貴方の作品を原作として利用した、その弊害です。
駄作の代名詞として揶揄され続ける
この例え話のとおり、貴方の原作がどうあれ、映像化の失敗がすべての可能性を潰してしまいます。いちど映像化に失敗した原作は、よほどの例外的な事例でもない限り、ほかのプロデューサーは見向きもしません。さらに悪いことに既存の読者までも、作品の価値の失墜を感じ、小説の内容に関係なく離れていってしまうのです。
もちろん貴方の小説をこよなく愛する、コアな読者は応援し続けてくれます。けれども「貴方の土地に建ったままの廃墟」は残ります。
映像版の動画配信が継続する間、貴方の小説と同じタイトルを冠した映像版は、駄作の代名詞としてネット上で揶揄されます。「『○○××△△』は本当につまらなかった」というSNSの声は、もはや映像版と原作のどちらを指すのか、第三者には区別できなくなります。ブランドが地に墜ちたことだけは明らかです。
なぜ小説がそこまで巻き添えを食うのでしょうか。理由は映像版の鑑賞者の心理にあります。例えば映画の観客は、つねに「脚本がよくできていた」「脚本が下手だった」などと、脚本の善しあしについて言及します。実際には、観客は脚本を読んでいません。巨額の費用をかけた映画の製作に際し、プロデューサーや監督は脚本を吟味したはずであり、それ自体はよく書けている可能性が高いのです。
ところが観客は映画を観賞した以上、台詞もすべて聴いたし物語も把握できたのだから、脚本を読んだも同然と判断します。実際には俳優の演技や、監督の演出に左右された部分もあるはずですが、観客は脚本を理解したと信じます。
原作小説もほぼ同じ扱いを受けます。小説を読んでいない観客にとって、映画を観るのは原作を読むのと同じ感覚なのです。原作の設定が大幅に変えられているならともかく、あらすじを読んだ限りでは共通している、ならば駄作映画の原作も駄作であると決めつけられます。
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