「美術の歴史」はビジネス戦略の宝庫といえる理由 「名画」は綿密すぎる戦略のもとで生まれている

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今日の画商のビジネス・モデルが確立され、画家が教会や宮殿といった現場での制作から自分の工房でのリモートワークに働き方を変えたのもこの時期である。

そうした市場改革の基盤を整えたのは、それよりも1世紀以上前のルネサンス期の美術であるが、ルネサンス美術を支えたのは、闇金融の罪を逃れるために芸術のパトロンとなったメディチ家であった。その支援がなければ、ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』も、ミケランジェロの傑作『最後の審判』も描かれていなかったかもしれない。

不動産としての『最後の晩餐』

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が世界遺産に認定され、それよりはるかに多くの見学者をルーヴルに集める『モナ・リザ』が認定されないのは、前者が「不動産」であり後者が「動産」だからである。

ユネスコの定める世界遺産の規約は認定の対象を「不動産」に限っており、ミラノの修道院の壁に描かれた『最後の晩餐』は「不動産」に帰属しているため認定され、同じダ・ヴィンチの傑作でも『モナ・リザ』は「動産」であるため認定されていない。

この絵画の「動産」化を促したのが「キャンバス」であり、おかげで画家が仕事を求めて動く従来の働き方モデルは、作品が顧客を求めて流通する市場モデルに変革されることになったが、この変革に対応し損ねた画家がほかでもないダ・ヴィンチであった。

彼の世代が、画家のキャリアの頂点と見なしていた王室画家の地位は、画家が宮廷に仕えて「食客」、つまりは住み込みの使用人となることを意味しており、こうした働き方は自宅で制作した作品を売って生活する「作家」という新しい働き方モデルからすれば、もはや旧時代のビジネス・モデルだったのである。

おそらくは「作家」として美術史上最高の素養を持ちながら、ダ・ヴィンチは旧来型の「食客」の身分を脱することができず、美術史上最高値が付くはずの『モナ・リザ』という「動産」絵画を描きながら、「作家」としての経済的成功には恵まれなかった。画家が仕事を求めて動くという旧モデルにとらわれて、作品が動けば経済が回るという新時代のモデルに発想を切り替えられなかったのだろう。

『モナ・リザ』の法外な代金をフランス王室から受け取ったのはダ・ヴィンチ本人ではなく、彼の弟子で愛人とも噂される美青年サライであった。どうやら弟子の世代は、新時代の経済モデルに対応できていたらしい。

対照的に、時代に対応して大成功を収めたのが印象派の画家たちであった。彼らを売り出すにあたって、ある画商が立案した巧妙きわまりない戦略が大成功したからである。

印象派の絵画は、発表当時はガラクタ扱いされ二束三文でも買い手がつかなかった。それどころか、当時の風刺画には、「見るとショックを受けるから」という理由で妊婦が印象派の展覧会への入場を拒否される場面を描いたものや、戦場で「武器」として印象派の絵画を掲げて突進していく兵士を描いたものまである。

完全にバッタもの扱いだったが、この印象派の作品群は、金ピカ額縁に入れられて猫足家具を配したサロンで展示されることによって、アメリカの新興富裕層という大市場を獲得。現代にまで続く印象派バブルの歴史を開幕させている。

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