織田信長も危機一髪「戦国の忍」の凄すぎる実力 敵陣へ大胆に潜入し、大損害を与えることも
なぜ筑紫氏が、工作員をわざわざ茶売り商人に仕立てたのかといえば、茶売りには火を仕込んだ茶竃がつきものだったからだ。茶売り商人はすんなりと岩屋城に入ることを許され、虚空蔵台というところ(本曲輪のことか)から、大手口に向かって、茶を売りながら下って行った。
そして、周囲の様子を見計らいながら、人目がない隙に、火種(「たまこ火」)を、建物の陰に投げ込んでまわった。そして、大手口を無事に通過すると、急ぎ筑紫方の武蔵城(福岡県筑紫野市)に逃げ込んだという。この城には、筑紫氏の家臣帆足弾正が在城していた。
茶売り商人に化けた工作員は、指示どおり岩屋城に火種を多数投げ込むことに成功したと報告した。これを聞いた帆足弾正は、ただちに筑紫広門に、策略の成功を伝えた。広門は、あらかじめ家中に出陣の準備を指示しており、ただちに岩屋城乗っ取りを下知した。
夜半にすべての建物が焼け落ちた
このころ、岩屋城ではあちこちで出火が始まっていた。城方は、出火を知って慌てて火を消し止めたが、1カ所を消すとすぐに別のところで出火が起きるといったありさまで、たちまち手が回らなくなり、城内は炎に包まれた。そして岩屋城は夜半にすべての建物が焼け落ちてしまったという。
岩屋城の火災を見た宝満城の軍勢が急ぎ駆け付け、岩屋城の防衛を固めた。そのため、岩屋城に迫っていた筑紫勢は不利を悟り、作戦を中止して空しく撤退したという。
また、岩屋城焼失の知らせは、翌8日巳刻(午前10時頃)、立花道雪のもとに届いた。立花氏は、ただちに法螺貝を吹かせて家中を招集した。
大貝が吹き鳴らされたことに驚いた家臣らが、何事かと参集すると、岩屋城が筑紫氏によって焼け落ちたことを知らされた。立花家中は奮起し、ただちに岩屋城に出陣し、防備を固め、焼け落ちた城の再興にあたったという。
筑紫広門の工作員は、忍の者であったとみて間違いなかろう。こうした策略が、日常的に戦国期では行われていたとみられる。なお岩屋城は天正14年7月、島津軍の猛攻を、高橋紹運がわずかな手勢で半月も守り抜き、遂に壮烈な戦死を遂げ、落城したことで知られている。
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