織田信長も危機一髪「戦国の忍」の凄すぎる実力 敵陣へ大胆に潜入し、大損害を与えることも

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また、永禄8(1565)年、肥後の戦国大名相良頼房は、対立する宇土城主名和氏の放った忍びの攻撃を受けている。『八代日記』永禄8年5月22日条に「同廿二日、小河ニ宇土ヨリ忍来候て火付候へとも取きやし候、忍かめ坂ノことく来候、かめ坂ニテ蓑田杢左衛門尉方人足行合、人足手負候」と記録されている。

肥後国宇土城の名和氏は、同国益城郡の戦国大名相良氏の属城小河城(小川城、宇城市小川町)に忍びを放ち、火を放った。だが、これは相良方が発見して消し止めたため、大事には至らなかったらしい。

相良方は忍びを追跡したが、「かめ坂」(場所不明、小川城下の町場の地名か)を抜けて逃げられてしまったようだ。この時、「かめ坂」で、相良家臣蓑田杢左衛門尉配下の人足が、忍びと行き会い、負傷したという。人足は、忍びを捕縛しようと挑みかかり、果たせず、負傷したのであろう。

天正14(1586)年4月、宇都宮国綱は、対立する壬生義雄の拠点鹿沼城攻略を企図した。すでに数年に及ぶ戦闘が繰り返され、宇都宮氏は、佐竹氏とともに何度も壬生城や鹿沼城を追い詰めながら、あと一歩攻めきれなかった。

宇都宮家臣片庭清三郎は、秘かに鹿沼に忍び入り、各地を放火してまわったらしい。片庭が放火したのは「坂田其外町中焼破候」とあることから、鹿沼城のある坂田山をはじめ、「町中」とあることから、その城下であったと考えられる。

本拠地に敵の潜入を許した織田信長

かの織田信長も、本拠地岐阜城に甚大な損害を受けるのをすんでのところで回避した経験を持つ。天正2(1574)年5月、織田信長は滞在していた京都から、急遽岐阜に帰国した。甲斐の武田勝頼が、遠江に侵攻し、徳川方の要衝である高天神城を包囲したとの注進を受けたためである。

信長が京都を発し、帰国の途についたのは5月16日のことであった。その後は、徳川家康を支援すべく、出陣の準備を行っていたとみられる。

その真っ只中の6月6日夜、岐阜城で大騒動が発生した。城に多数の敵が忍び入り、「当城二段」とあるから、岐阜城のどこかの曲輪まで潜入を許したと推定される。

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