マクドナルド創業者「成功の代償」に失ったもの ビジネスに魂燃やす「レイ・クロック」の深い業
しかし、これほど猛烈に働いても、クロックはほとんど利益を得ていませんでした。店舗が増えて売り上げは伸びても、働き損となっていたのです。原因は契約形態にありました。
クロックは契約の際に、新店舗のオーナーから認可料として950ドルを受け取り、店舗が運営された後は売り上げの1.9%の支払いを受けるという契約を交わしていました。ところが、店舗が運営されるまでには、様々な準備に日数を要します。
この間、1.9%の売り上げはクロックに入らず、彼は950ドルに手をつけざるを得なくなります。つまり、働けば働くほど、赤字を背負うことになったのです。それでは店舗を広げないほうがいいということになり、チェーン展開は挫折します。客単価の安いマクドナルドのハンバーガー事業は、チェーン展開してこそうまみがあるのです。
また、マクドナルド兄弟がおこなった合理的な店舗運営は、チェーン展開には相性ぴったりで、マニュアル化しやすく、またマニュアル化できてこそのチェーン展開でした。狙いはよかったのです。しかし、実際にやってみると、店舗開店に日数を要することが大きな障害だと判明しました。
「どうすればいいのだ」と、クロックは悩みます。しゃにむに働くだけでは改善できません。システムの見直しが必要でした。
そこで活躍したのが、彼の知恵袋となったハリー・ソナボーンです。ソナボーンは「新店舗はクロックが場所を決め、その土地をローンで購入する。さらに、その土地を抵当として銀行から金を借り、店舗を建設する。フランチャイズ加盟者には、売り上げの1.9%に加えて、抵当権の返済も求める」という方式を提案。クロックは迷わず採用します。
この結果、マクドナルドの店舗価値によって土地の値も上がり、クロックは大いに潤いました。チェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗にもなります。クロックは、社名をマクドナルドコーポレーションと変更しました。翌1961年、マクドナルド兄弟が、すべての権利を売りたいと言ってきます。
兄弟が提示したのは270万ドル、それはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額でした。それでも、兄弟との確執を思えば、関係を解消できるとクロックは応じます。
ところが、またしても確執が生まれます。すべての権利を手放したはずなのに、兄弟は「自分たちが運営した1号店の権利は含まれていない」と言い出したのです。その店舗は、なんと言ってもマクドナルド・ハンバーガー誕生の店、クロックは引き継ぐのが当然と考えていました。そこでクロックは、兄弟の店の近くにマクドナルドの店舗をオープンし、今度こそ兄弟を追い込むことに成功しました。
1965年、マクドナルドは株式上場をし、クロックは莫大な創業者利益を得ました。そして1984年に81歳の天寿をまっとうするまでに、世界で8000店を超す店舗を広げたのです。
クロックが「成功と引き換え」に失ったもの
実業家としては大成功したクロックでしたが、妻とは離婚し、右腕と頼んでいたソナボーンとは経営方針で意見が合わず退社させました。後年、クロックは「トップは孤独なのだ」と語っています。
米国の食文化を象徴するハンバーガーを世界に広めた男、レイ・クロック。彼は、苦境に陥っても挫けない不屈の闘志、目的達成のためには孤独にもなれる男でした。マルチミキサーの販売会社を経営し、高望みしなければ平穏に暮らせた人生でしたが、妻の反対に遭っても己が野心に突き進みました。
レイ・クロックは、逆転する必要がないのに人生を逆転させたのでした。
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