人間国宝・神田松鯉が語る「講談と落語」の違い 似ているようで決定的な差がある

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もう一つ考えられる理由として、軍談だけでなく、落語でいう人情噺、いわゆる世話物と呼ばれる町人社会・世相風俗を扱った世話講談の要求が高まったことが挙げられます。

世話講談の王道、『天明白浪伝』や『鼠小僧』のような泥棒物、『四谷怪談』などの怪談物、『清水次郎長伝』『国定忠治』といった三尺物、あるいは『幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)』などの侠客(きょうかく)物の場合は、本を置かないほうが効果的だったのでしょう。

余談ですが、落語の人情噺と世話講談には共通の話も数多く残っています。その内容の面白さから、元は講談のネタであったものが落語になったりしたのです。有名な『柳田格之進』『左甚五郎』『浜野矩随(はまののりゆき)』なども、もともとは講談。同じ話でも、落語家が演じれば人情噺、講談師が読めば世話講談になります。

最近では、講談師だけでなく落語家の若い人が私のところへ講談の稽古に来ます。世の中がお笑いだけでなく筋のあるしっかりした話を求めているのでしょう。

講談は「読む」芸、落語は「話す」芸

本来、釈台に本を置いて軍談を読んでいた講談は、「読む」ということを芸にまで極めたものです。同じ話芸でも、落語が会話によって成り立つ芸であるのに対し、講談は「読む芸」という点でも、大きく異なります。

落語は「話す芸」です。落語は、庶民の中から起こった笑いと人情をはなす芸、それで噺家(はなしか)と言います。オチのある笑い話ですから、登場する人物の個性を表現したり笑いを描いたりするには、会話の形式で、身振り手振りを取り入れるのが効果的です。

ですから、扇子を大盃に見立てて酒を飲む、キセルに見立ててプカリと吸う、扇子を箸に見立ててそばやうどんをたぐるしぐさなど、さまざまな小道具にして盛り上げます。

講談師も扇子は使いますが、あまり視覚的なしぐさは取り入れないように思います。手紙を読むときや剣に見立てるくらいでしょうか。なぜなら、講談は「読む芸」ですから。今でも講談は「一席の読み終わりでございます」と言うくらいです。

声を出して「読む」とは、もととなる文章があって、昔からある伝記などを朗読、朗誦することをいいます。江戸時代でも、出版文化は盛んだったようですが、町民らの識字率はまだまだ低く、歴史や伝記を語るには、きちんと筋道のある内容を読み聞かせるのが一番だったわけです。

また、昔の本は文語体で綴られておりましたから、一般の人には難解でした。それを講談師が面白く解説しながら読み聞かせることで、それが娯楽にもなり、道徳や教養にもなりました。

しかし、ただ単調なリズムをつけて読むだけでは飽きられます。そのために、当時の講談師はさまざまな「読む芸」を磨いたわけです。日本人に適した、朗々とした流れるような口調を取り入れ、「修羅場調子(ひらばちょうし)」と呼ばれる、七五調を取り入れた朗誦法が確立しました。

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