鉄道によって鳥栖駅界隈は発展を遂げ、その発展がさらに発展を呼ぶという好循環をもたらした。こうして最盛期の鳥栖駅は、総面積42万平方メートルという巨大なヤードを擁する駅になった。
1914年には、製糸業を全国展開してシルクエンペラーの異名を取っていた片倉財閥が鳥栖駅前で製糸工場を操業。高度経済成長期の1956年には、専売公社が駅前に工場を構えた。
その一方で、鉄道が街の発展を阻害しているという面もあった。鳥栖駅は西側にしか駅舎がなく、繁華街は駅西側に形成されている。東側は荒涼とした鉄道用地が広がるだけだった。鳥栖駅には貨物列車が多く発着することもあり、頻繁に坂阜(はんぷ)作業がおこなわれていた。坂阜作業は時間を要するため、駅東西を行き来するための踏切は、開かずの踏切として有名になった。
鉄道が街を東西に分断し、それが街の一体的な発展にブレーキをかけているとの認識は行政当局にもあった。行政は開かずの踏切対策に動き、東西を自由に行き来できる地下道を建設。しかし、抜本的な解決策には至らず、鳥栖駅は西側のみが一方的に発展を遂げる状態がつづいた。
「長崎ルート」でどう変わる?
駅東側に開発機運が生まれるのは1984年で、それは鳥栖駅を発展に導いた広大なヤードが廃止されたことがきっかけだった。
鳥栖の発展を牽引してきたヤードが廃止されると、広大な鉄道用地は鳥栖スタジアムや公園へと整備される。また、企業の事業所も集積した。こうした開発を受け、駅のすぐ横には西側と東側を結ぶ歩行者専用橋が設置される。それでも、鳥栖駅のにぎわいは西側偏重のまま現在に至っている。
2011年、鳥栖駅から約3km西に離れた地点に新鳥栖駅が新たに誕生した。新鳥栖駅は九州新幹線と長崎本線の停車駅になり、鳥栖市の新しい玄関駅としての期待を背負っている。しかし、今のところ街の中心軸が鳥栖駅から移行する気配は見られない。
鉄道で街を興した鳥栖は新幹線という黒船の登場で再び揺れ始めている。冒頭で触れたように、九州新幹線長崎ルートが全通すれば人の流れは大きく変わるからだ。
九州新幹線長崎ルートの一部開業は約2年後。全通はさらに後になるが、果たして鉄道の街・鳥栖はどうなるのか? 九州のクロスロードとして発展を牽引してきた鳥栖駅は、岐路に立たされている。
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