長崎の警備は筑前(福岡)藩も担当していたが、藩財政に重い負担になっていた。そのため、西洋技術には後ろ向きだった。西洋技術は日本にとって未知の技術であり、それだけに莫大な費用を投じて試行錯誤しなければものにならない。肥前・筑前どちらの藩も新技術を多く吸収できる立場だったが、その明暗は藩主のスタンスで大きく分かれた。
こうして肥前藩は科学技術をリードしていく。琉球を介して海外とつながっていた薩摩藩も西洋技術への関心が高く、両藩は1867年に開催されたフランスのパリ万博に参加。万博では、日本を代表する徳川幕府とは別にブースを出展した。それが世界に向けて肥前藩の存在感を示すことにもつながり、現地のパリでは、幕府と肥前藩を同列に扱った。幕府にとって、これは屈辱でもあった。
明治期、肥前藩から首相に就任したのは大隈重信しかいない。そのため、維新後に多くの首相を輩出した薩長に比べて、肥前藩の印象はやや薄い。しかし、前述した経緯もあって科学・技術分野では他藩を圧倒した。当然、それは鉄道への意識にも及ぶ。
佐賀は早くから鉄道に着目し、人々の暮らしはどう変わるのか?産業は振興するのか?経済は発展するのか?といった鉄道がもたらす影響力に敏感だった。
交通の要として発展した鳥栖
それを端的に表しているのが、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅といえる。現在、佐賀県全体の人口は約89万9000人で、鳥栖市の総人口は約7万4000人。一方、九州全体の人口は約1430万人。人口だけで見れば、佐賀県の、そして鳥栖市の存在感は決して大きくない。
しかし、鳥栖市は九州全体の要として機能している。鳥栖には鉄道や高速道路が南北に走り、九州全域どこへでも容易にアクセスできる。これが、企業が鳥栖へ事業所を集約する大きな要因でもある。
政財界は以前から、鳥栖市の地勢的な特性に注目していた。2011年に九州新幹線の鹿児島ルートが全通し、福岡市・熊本市・鹿児島市といった九州の主要都市が一本の新幹線で結ばれた。これにより、鳥栖に拠点を集約する動きは一気に加速する。
その鳥栖発展の原動力でもあるクロスロードとしての機能は、1889年に九州初の鉄道が開業したことから始まる。
殖産興業をスローガンに掲げた明治新政府は、1873年に三池炭鉱の採掘を官営事業として開始。すぐに採炭事業は三井へと売却され、その後は強大な資本力を背景に三井・三菱や九州地盤の麻生・安川・貝島といった財閥、伊藤伝右衛門などによって炭鉱業は活況を呈していく。次世代のエネルギーを担う石炭事業が軌道にのると、運炭の効率化・迅速化が求められた。炭鉱業で財をなした企業家たちによって、九州各地で鉄道が設立された。
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