太田光「負けた時に悔しがれる人間感情の尊さ」 テクノロジーが進化しても変わらない人間根幹

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俺にとって一番興味深いのは、テクノロジーの進歩の裏側に潜む人間の感情や行動だ。つまり、科学やテクノロジーという「側」よりも、それを受け取る人間のほうに興味がある。漫才ロボットではないけど、初音ミクの登場とその人気は象徴的だった。

理屈としてはどう考えたってCGなのに、見る側の人間が勝手に擬人化してカバーしてしまう。言ってみりゃあ、人間はコンピュータグラフィックスにさえ恋ができるわけで、生身のアイドルと初音ミクとの間に横たわる生き物か否かという境界線を取っぱらって埋めてしまう力が人間にはあるということ。

初音ミクとの疑似恋愛は、コンピュータと人間の「友愛」みたいなものだけれど、「AIに人間が支配されるのではないか?」というテーマは、『マトリックス』や『ブレードランナー』や『ターミネーター』などの映画はもちろん、小説や漫画といったさまざまなジャンルで繰り返し描かれてきた。

例にあげた3作よりももっと古い作品だと、1950年に刊行された小説の『わたしはロボット』が有名だ。作者のアイザック・アシモフが「ロボット三原則」というものを盛り込んでいて、「人間に危害を加えてはいけない」「命令に従わなければいけない」「それらに反しない限りロボットは自己を守らなければいけない」とした。

この三原則が、その後のSF作品に大きな影響を及ぼしているんだけど、最近のAIをめぐる論争にも通底する概念だと思う。

星新一「文学」の普遍性

さて、日本。この国には星新一という天才がいた。当時の純文学者が「SF? なにそれ?」と歯牙にもかけなかった時代に、これまた天才漫画家である手塚治虫とともに、日本のSFを文学にまでひきあげた人物。星新一は、SFもまた文学であることを証明し、文学界の歴史を変えたひとりだ。

俺は星新一をめぐるこんなエピソードが好きだ。まだ売れていない時代の星さんがある時に、『三田文学』の小説家と雑談していた。その時の星さんの興味は、ネパールかどこかのインフラがそろっていないところに国境なき医師団のような人々が行って病気を治したことだった。ところが、その善意によって人口爆発が起きてしまって、それが次の問題になっていると。

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