登場から半世紀、8000系は東武の「顔」だった 20年間に712両製造、引退進むがまだまだ現役 

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8000系は高度成長期の真っ只中、1963年に最初の車両がデビュー。当時の通勤電車では珍しかった「空気ばね」(エアサスペンション)を採用する一方、減速度の高い「発電ブレーキ」を搭載せず、通常のブレーキを強力にして走行性能を確保するなどコストと性能を両立させた。室内のロングシートは長距離利用者に配慮した造りで、今も座り心地には定評がある。

車内はシンプルなロングシートだが座り心地はよい(記者撮影)

当時は沿線の急速な発展により利用者が爆発的に増えた時期だった。伊勢崎線は1962年5月に地下鉄日比谷線との直通運転を開始し、同年12月には東洋一の規模と言われた巨大団地の最寄り駅として松原団地駅(現・獨協大学前<草加松原>)が開業。東上線も1965年以降、川越市以北の複線化が矢継ぎ早に進んだ。

そんな中、8000系は輸送力増強の立役者として活躍の場を広げていった。当初は4両編成と2両編成のみだったが、1972年に6両編成、1977年に8両編成が登場。製造は最終的に1983年3月まで続き、車両数が大幅に増えたことで番号も4ケタでは収まらなくなり「81110」といった5ケタナンバーの車両も出現した。

登場時の塗装はベージュとオレンジ色の塗り分けで、のちにクリーム色1色になった。1980年代半ばまでの東武線を知る利用者なら「肌色の電車」を懐かしいと思う人も多いだろう。デビューから20年超を経た1986年度以降は車体の更新が始まり、先頭の形を一新して「顔」が変化。塗装も現在見られる白地に青いラインとなった。

引退が進みつつあるが…

長らく東武線の顔として走り続けてきた8000系も、近年は引退が進みつつある。浅草―舘林・南栗橋間からは2010年に撤退し、2015年1月には東上線の池袋―小川町間から引退。伊勢崎線・東上線ともに、都心のターミナルに顔を出す機会はなくなった。一時期は全列車が8000系だった宇都宮線からも、2019年5月までに姿を消した。

野田線(東武アーバンパークライン)を走る8000系(記者撮影)

だが、数が減ったとはいえ支線やローカル区間、そして野田線(東武アーバンパークライン)などではまだまだ現役。新栃木出張所の8506・8606のように、ほかの車両の入れ換えや牽引という「裏方」の任務を得て活躍を続ける車両もある。また、「東武博物館」は製造当初の原型をとどめる6両編成(8111編成)を走行できる状態で保存しており、東武の8000系に対する愛着がうかがえるようだ。

新栃木出張所の手塚区長は、「年式による違いはあるが、8000は東武の基本的な車両」と語る。車両の個性を熟知したベテランたちの手によって、「昭和の名車」8000系は今も走り続けている。

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小佐野 景寿 東洋経済 記者

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おさの かげとし / Kagetoshi Osano

1978年生まれ。地方紙記者を経て2013年に独立。「小佐野カゲトシ」のペンネームで国内の鉄道計画や海外の鉄道事情をテーマに取材・執筆。2015年11月から東洋経済新報社記者。

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