郷原信郎「検察は神ではなく人は間違いを犯す」 日本人が人質司法にあまり違和感を持たない訳
「私自身の検察での経験からも、検察組織にいると、検察の中で決めることがすべてであり、正義であり真実であるという考え方になってしまう。そのことに検察官は違和感を持たないんです。その考え方が裁判所に否定されたり、被告人の弁解が認められたりすることはあってはならない。それをいかに防止するかが自分たちの役割のように思えてくる。今は弁護士として、検察と逆の立場になると、それが、そういう検察の在り方が日本の刑事司法にとって根本的な問題だと思うようになりました」
「検察の在り方検討会」の議論を経ても
――大阪地検特捜部の証拠改ざん事件をきっかけに「検察の在り方検討会」が開催されましたが、その議論を経て、検察は変わったのでしょうか。
「検討会をやっている最中に起きたのが、衆院議員・小沢一郎氏の政治団体『陸山会』をめぐる事件です。あの事件では、検察官の虚偽報告書や、検察事務官を入れずに密室で取り調べをしたなどの問題が明らかになりました。ところが、検討会ではまったく議論にならなかった。検察の見直しの議論をしている時にあんな事件を起こすのですから、よくなるわけがありません」
「あの検討会でも、根本的なことには触れない範囲での議論だったと思います。限定的に可視化を実施したほか、検察の理念を策定したり、一般論的な提言を行う機関を組織内に作ったりはしましたが、根本的には何も変わりませんでした」
――日本の刑事司法は、人の問題を含めて諸外国とまったく違う考え方になっています。なぜ、そうなっているのでしょう。
「日本では、検察が刑事司法の中心なんですね。『検察の判断が真実とほぼイコール』という絶対的な確信がベースになっている。有罪率99%について、森・前法相は、日本では有罪の確信があるものだけを起訴するからだと言っていました。検察が全知全能の神であれば、説得力もあるでしょう。でも、人は必ず間違いを犯します。間違って起訴された人にとっては絶望的な世界になります」
「検察の判断が常に正しいというならば、推定無罪の原則は働きません。起訴されているのに無罪を主張するのは反省も悔悟もないけしからんヤツであり、そういう人間を保釈するのは危険だとなる。長期間の身柄拘束は、世の中の人を安心させるという社会防衛的な観点もあるから、日本社会では人質司法にあまり違和感を持たないんです。これをすぐに改めるのは容易ではないと思っています」
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