「コロナ禍の夏の甲子園」に抱く違和感の正体 交流試合の「150球熱投」は賛美すべきものか

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事実、大部分の高校は複数投手の継投で試合をしていた。強豪校であっても監督の方針で「投手全員に投げさせる」ことを貫いた学校もあった。

例によって新聞を中心とするオールドメディアは「熱投」を賛美したが、投手の中には試合後に肩やひじの異状を訴えた選手もいた。コロナ禍によって社会における健康管理に対する意識が高まる中で、高校野球は旧態依然とした姿を見せつけたという見方もできよう。

「甲子園至上主義」が生み出す現実との乖離

これらの出来事から浮かび上がってくるのは、従来の「甲子園至上主義」ともいうべき高校野球の姿と、現実の社会との「意識の乖離」だ。

これまでの高校野球は、甲子園を目指してトーナメント戦を勝ち抜くことがすべてで、そのために多くを犠牲にするのが「高校球児の姿」だとされた。ファンもメディアも炎天下でひたすら精進する球児を手放しで礼賛してきた。

しかし、それは高校野球のごく一面にすぎない。筆者はこの夏、有名・無名校の指導者に話を聞いたが、多くの指導者が、大事なのは「子どもたちが野球を楽しむこと」であり、「野球を通じて成長すること」だと語ってくれた。

ガチガチの「勝利至上主義」は今や少数派だといってもいい。高校野球の価値観は多様化しているのだ。そのことにメディアも世の中も、もっと目を向けるべきだ。

日本高野連は毎年5月時点での高校野球部員数を発表する。今季は7月末時点となったが、全国の1~3年生の高校野球部員は13万8054人。前年よりも5813人、4%減少した。2014年には17万0312人だったから3万2258人、19%もの減少だ。中学生以下の野球競技人口の激減が、高校野球にも波及しているのだ。

この大幅な減少は「少子化」だけでは説明できない。高校野球は高校生から選ばれるスポーツではなくなりつつあるのだ。

コロナ禍が去ったあとの世の中は、もはや後戻りができない「新しい社会」になるといわれている。高校野球もこの未曽有の災難を奇貨として、大きく変化すべきときが来ているのではないか。

広尾 晃 ライター

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ひろお こう / Kou Hiroo

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイースト・プレス)、『もし、あの野球選手がこうなっていたら~データで読み解くプロ野球「たられば」ワールド~』(オークラ出版)など。

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