中国では1912年に、辛亥革命の結果として清朝が崩壊して、孫文を大総統とする中華民国が成立した。アメリカは、東アジアにおいて新たな共和国が誕生して、そこで民主主義が育まれ、この新興国が自らと価値を共有するパートナーとなることを期待した。戦間期のこの地域では、そのような若き共和国にとっての最大の脅威が日本であり、米中が提携してそれに対峙する必要が説かれていた。これが1920年代から30年代にかけてのアメリカのアジア政策の基軸であった。
その後、第2次世界大戦が勃発すると次第にアメリカは中国に対する援助を拡大する。同時に、1943年のカイロ会談と、1945年のサンフランシスコ会議による国連創設など、戦後東アジア秩序が米中協調を基軸として進められていくための構造がつくられた。すなわち、1931年の満州事変以降、1943年のカイロ会談による米中協調を絶頂として、東アジアの平和と安定を米中という2つの大国により運営していく構図がつくられた。いわば、1931年以降のアメリカのアジア政策は、日本に対する脅威認識と、中国に対する漠然とした信頼を、その基調として発展してきた。
そのような流れが後退したのは、1947年以降、国務省政策企画室長のジョージ・F・ケナンが対日関係を重視して改善するという政策転換を行ったことが大きい。とはいえ、そのことは必ずしも、日米協調によって東アジアの平和と安定が維持されることを意味しない。日本の役割はあくまでも基地を提供することであり、地域大国としてアメリカの戦略的パートナーになることではなかった。したがって、1940年代から60年代にかけては、日米協調が東アジアの平和を担保したわけではなかった。アメリカの圧倒的な軍事力と、それを支えるための在日米軍基地がそれを担保したのだ。
1971年のキッシンジャー訪中以降の米中和解は、再び米中協調によってアジア秩序を維持していくことへの強い意志が回復したことを意味する。そして米中関係を友好的に保つためカギとして、日本の軍国主義の再来という「神話」が必要であった。そのような通奏低音は、2020年になるまで完全に消え去ることはなかった。
ところが現在のトランプ政権において、そのようなこれまでの米中協調と、アメリカの対中関与政策を基軸としたアメリカのアジア政策を再検討しようとする強い意欲が見られる。そのような政策の転換を考える際に想起すべきは、20世紀のアメリカを代表する中国通の外交官であった、ジョン・マクマリーの存在である。
マクマリーとケナン
それまではほとんど一般には知られることがなかったジョン・マクマリーの名前が知られるようになった契機は、ジョージ・F・ケナンの著書にその名が記されていたからだ。アメリカの冷戦戦略の骨格ともいえる「封じ込め戦略」を構築した外交官であり、歴史家であり、戦略家でもあるジョージ・F・ケナンの主著、『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫、2000年)の第3章、「アメリカと東洋」でケナンは、次のようにマクマリーについて言及している。
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