オペル、14年ぶりの日本再参入に勝算はあるか 知名度ゼロからの市場開拓には挑戦が必要だ
カール・ベンツが世界で最初のガソリンエンジン自動車を発明した1886年以降、20世紀初頭まで、自動車の製造は手作りが中心で、富裕層のための高価な乗り物でしかなかった。しかし、オペルはあえてフランスからシャシーを購入し、それに自社の車体を載せることでより安価な自動車を製造し、事業として成功させる道を選んだのである。その象徴が、ドクトル・ヴァーゲンだ。
自動車製造を事業化する考え方は、アメリカのヘンリー・フォードの発想に通じる。フォードも自動車を庶民の乗り物とするため、流れ作業による大量生産方式を創案し、フォード「T型」で実現した。
オペルの5人兄弟の次男と4男はともに渡米経験があり、アメリカでのさまざまな事業化の動きを直接目にしてきた可能性がある。やがてオペルは、1929年にアメリカの自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ(GM)の100%子会社となる道を選び、2017年にフランスのPSA(プジョーシトロエン)傘下となるまで、GMの欧州事業をヴォクスホールと共に支えてきた。
ヤナセの取り扱いにより「アストラ」がヒット
オペルの特徴は、ドイツ車らしく質実剛健で高い走行性能や品質を備えながら、常に消費者に身近な価格帯の商品に徹することであった。
しかし、1980年代の日本進出時には、メルセデス・ベンツやBMWと競い合うような上級車種として戦略が練られた結果、ドイツ本社の考えと日本市場での戦略に乖離が生じ、成功しなかった。ほぼ同じ価格帯であるなら、オペルよりメルセデス・ベンツを選ぶのが消費者心理だろう。
そうした中で、オペルが日本国内で唯一成功したのは、ヤナセがフォルクスワーゲンの輸入・販売権を失い、翌1993年からオペルを主力小型車として量販したときだった。ことにフォルクスワーゲン「ゴルフ」と競合する「アストラ」が街に増えた。
アストラは、それ以前からゴルフと遜色ない商品力を持つ車種であった。ただ、知名度と販売網が不足して、日本では売れていなかったのである。
ヤナセは、輸入車販売の老舗としてキャデラックをはじめとしたGMグループのクルマの販売も永年手掛けていた。そんな背景もあり、ヤナセがオペルの販売をはじめると、アストラを中心に販売台数を伸ばしたのである。
ヤナセが今日も宣伝で使う「クルマはつくらない。クルマのある人生をつくっている」の言葉にあるように、ヤナセの優良顧客はブランドを買ったのではなく、ヤナセが売るクルマを買っていたのであり、それがゴルフからオペルになろうともヤナセへの信頼は揺るぎなかった。
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