都心の中央線、なぜ直線でなく「S字」を描くのか 鉄道建設には江戸城外濠の「遺産」が役立った

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難題はもうひとつあった。当時東京市内の鉄道や幹線道路建設には、1888(明治21)年内務省により設置された「東京市区改正委員会」による承認が必要だったことである。「市区改正」という言葉がピンと来にくいが、当時この言葉は現代の「都市計画」に近い意味で使われている。

市区改正委員会が最も重要視していたのは、東京市内で鉄道が道路と交わるところは立体交差とすることだった。自動車がなかった時代、なぜ踏切をなくすことにこだわったのかというと、西欧の都市鉄道にひけを取らないものにしたかったこととともに、当時荷車を引く馬の往来が多かったことが挙げられる。踏切で馬が立ち往生したり、機関車に驚いて暴走したりすることが実際に起きていた。

このほか市区改正委員会からは、市ケ谷付近の外濠は「(眺望が)無類の風致を有し」ているので、景観を損なわないために樹木の伐採禁止といった面倒な命令がいくつかつけられている。議事録を読んでいると、こうした点は、私営の鉄道会社に対して特に厳しかった印象を受ける。

外濠の地形は立体交差に有利

その一方で、江戸時代の外濠の地形が、道路と線路との立体交差に対し有利に働いた。四ツ谷―市ケ谷―飯田橋間は、外濠の南側が高台になっている。線路は外濠に沿っているので、それらと交差する道は、高台から延びて線路をまたぐ橋となる。地形のおかげで、新橋―東京―上野間の山手線などのように高架橋を延々と造ることをしなくて済んだのである。

飯田橋駅付近の外濠は旧紅葉川の谷を利用して造られている。旧紅葉川はこの地点で神田川と合流して大きくカーブしていた。それに合わせて線路も急曲線となってしまった。なお現在飯田橋駅は、ホームを約200m新宿寄りに移設してホーム上の急カーブを解消させる工事中だ。

御茶ノ水駅付近の神田川の谷。江戸時代に開削した人工の谷を走る(筆者撮影)

その先の御茶ノ水駅付近の神田川の谷は、第2代将軍徳川秀忠の時代の1620年頃、本郷台地を開削して造った人工の谷である。

もともと神田川は神保町・大手町方面を経て江戸湾へと流れていたが、一帯の洪水被害をなくすため、御茶ノ水方面へ水路をつけ替え隅田川へと注がせる大工事を行った。徳川幕府が造ったこの谷がなかったら、中央線は神保町方面へと人家密集地を通ることとなり、用地買収の苦労は現コースの比ではなかっただろう。

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