都心の中央線、なぜ直線でなく「S字」を描くのか 鉄道建設には江戸城外濠の「遺産」が役立った

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甲武鉄道は、1889(明治22)年4月に新宿から西の郊外に向かって立川まで開業し、同年8月八王子まで延伸する。次に新宿から東の都心方向へ向けての建設を計画する。

当初のルート策定の際、陸軍が望んでいた小石川砲兵工廠(現在の水道橋駅北側、東京ドーム付近一帯にあった兵器工場)へと延びる線路なら鉄道敷設の許可を得やすいと考えた。新宿から北東へ向かい(現路線は南東へ向かっている)、その後、曙橋へと南下して市ケ谷へ出る案を計画した。

確かに土地の凸凹を考慮する限りでは、このコース取りがベストと思われる。市ケ谷から先は現在の中央線のルートと同じものである。

だがこのルートだと、立川方面から来た場合、新宿駅でスイッチバックする形になるので機関車の付け換えが必要となる。また線路用地買収に取りかかると、沿線住民の猛烈な反対に遭ってしまった。

陸軍や宮内省が難色

その後現在の中央線のルートに近い案を策定したが、それも難題が山積みだった。陸軍青山練兵場(現・明治神宮外苑)の土地を狭くしてしまうと、陸軍から横やりが入った。これは代替の土地を差し出すことで何とか解決がついたが、その先へ進むと赤坂離宮(現・迎賓館、赤坂御用地)のある丘が立ちはだかる。

新御所トンネル(左の3線)と旧御所トンネル(一番右)の信濃町側坑門。(筆者撮影)

線路が赤坂離宮の土地を通ることについては、宮内省の承諾がどうしても得られなかった。赤坂離宮の下をトンネルで通過し地上の鉄道用地は不要という現在のコースは、窮余の一策で生まれたものだった。

こうして新宿から東の都心へ向けて1894(明治27)年牛込(現飯田橋駅西方)、翌年飯田町(現飯田橋駅南方)へと開業していく。

信濃町―四ツ谷間に造られた赤坂離宮下のトンネルのうち、現在中央緩行線下り(新宿方面行き)電車が通るのが「旧御所トンネル」。四ツ谷側では明治時代の開業時からの重厚な煉瓦造りの坑門が印象的だ。

並行する中央快速線(上下)と中央緩行線上り電車が通るのが、アールデコ風のコンクリート製坑門の「新御所トンネル」である。こちらは1929(昭和4)年、周辺区間を複々線化するのに合わせて造られている。

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