あのマイカルの「倒産劇」を回顧して見える真理 細部を描ききれない「大きな構想」が会社を潰す
MYCALとは、Young & Young Mind Casual Amenity Lifeの頭文字をアレンジしたものであり、「若年層及び若い気持ちを持った人の気軽な快適生活」ということです。つまりは、若手から中高年まで幅広いターゲットのライフスタイルを支える、という考えがベースにあります。単なる安売りから決別し、生活づくり、街づくりを事業対象にし、生活文化産業集団に脱皮する、というチャレンジが名称変更に込められました。
そして、その象徴的な一歩が、翌1989年の未来都市「マイカルタウン」構想に基づく、マイカル本牧の出店でした。スーパーとはまったく次元の異なる巨大商業施設であり、サティを核店舗にしながら、映画館、スポーツクラブ、カーディーラー、金融機関などを収容した「時間消費型」のショッピングモールを出店したのです。
そしてバブル崩壊後は地価下落を背景にしながらマイカルタウンに対する積極投資を続けます。1995年にマイカル桑名、97年にマイカル明石、98年にマイカル大連商場、そして99年にマイカル小樽と、矢継ぎ早に投資が続きました。マイカル小樽への投資額は600億円を超える巨額なものでした。
このようにして、マイカルは大型のショッピングモール事業へと変身を遂げていったのです。
質を追求した大型店舗の出店が消費者ニーズに逆行
マイカルタウンは出店当初はにぎわいをもたらしましたが、やがてそのブームは下火になります。出店攻勢とは裏腹に、1990年代後半のマイカルの売り場は、総じて勢いのあるものではありませんでした。「店舗は広い割に、買いたいものがない」という状況だったのです。
1990年代後半は、デフレの時代。ユニクロや100円ショップが大きく飛躍してきた時期と重なります。消費者側としては、安くていいものを求める、という潮流がありました。しかし、その当時マイカルが追求していたのは、「量よりも質」。消費者のニーズとは異なる方向に走っていたのです。
しかも、複合型の店舗については、「自前化」が前提でした。つまり、マイカルタウンに入る店舗はできるだけマイカルやその関連会社で賄おうとしたのです。結果的に、マイカルタウンが追求した「質」の観点においても、消費者にとっては極めて中途半端な存在に陥りました。
安いものを大量に販売するという量販店モデルに限界を感じ、質の方向に舵を切ったマイカルでしたが、時代の流れは完全にマイカルの戦略に逆行しました。1990年代後半のマイカルシティは、巨額なコストが計上される一方で、売り上げは立たず、売り場効率は大幅に落ち込み、すべての店舗で大きく赤字を垂れ流す結果となっていたのです。
水面下の噂だったマイカル危機説は、1998年秋にアメリカ会計基準で670億円の赤字が表面化してから一気に広がりました。しかし、マイカルがリストラに本格的に着手し始めることができたのは、「マイカル宣言」を推進していた小林氏が1999年12月に急逝してからです。ワンマンで経営を引っ張ってきた小林氏の方針を誰1人変えることができなかったのです。
その後は宇都宮浩太郎氏が社長になりますが、メインバンクであった当時の第一勧業銀行からの融資は難航します。結果的にはメインバンクからの調達を諦め、外資系金融機関を頼り、店舗の証券化といった手法を通じて資金確保に走りますが、格下げ、株価低迷といった市場の評価を変えられず、事態は悪化するばかりでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら