戦前に存在した?「渋谷モノレール」構想の謎 もう一つの上野モノレールとの意外な関係
日本では1910年代以降、海外のモノレールの事例を知った起業家らが各地でモノレールの計画を相次いで申請。しかし、当時の日本ではモノレールの実績がなかったことなどから、ほぼすべて却下処分となった(2016年2月10日付「戦前にも練られていた『蒲蒲線』構想の全貌」)。上野懸垂電車の発起人グループのひとりだった有吉喜兵衛も、これ以前に神奈川県内でモノレールを計画して申請したが、いずれも却下されていた。
筆者の推測だが、上野懸垂電車の発起人グループは、もともと渋谷―井ノ頭間のモノレールを申請しようと申請書や図面の制作を進めていたのではないだろうか。しかし、このまま申請しても過去の申請と同様に却下される可能性が高いと考え直し、期間限定の短距離路線を建設する方針に転換。最初に制作した図面を流用し、上野懸垂電車の申請を行ったと思われる。
将来の「本格的路線」建設を目指した?
数年でも運転すれば、モノレールがどんな乗り物なのかを世間に知らしめることができる。また、期間限定なら営業許可を受けやすいという判断もあったのだろうか。とりあえず数年間の運転でモノレールの利点を宣伝して出資者を募り、将来的には渋谷―井ノ頭間など、本格的な路線の建設につなげたいという思惑があったのかもしれない。
それでも上野懸垂電車の申請は却下されたが、戦後のモノレールの開発では上野動物園モノレールや名古屋鉄道(名鉄)の犬山モノレール(愛知県犬山市)など、短距離の営業路線による事実上の実証実験運転が行われており、これが東京モノレールなど本格的なモノレール路線の整備へとつながっている。
仮に筆者の推測どおりなら、実証実験運転を経て将来の本格的な路線の建設につなげようとした上野懸垂電車のスキームは、戦後のモノレール計画で生かされたといえるかもしれない。
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