恋愛関係だけでなく、結婚まで望んでいるようだった。17歳なので結婚できる年齢ではある。
「彼が私でいいなら、結婚したいです。私も今から誰かと出会って、時間とお金をかけて関係を構築する自信もなくて、もう人生を諦めているというか。人生、無理かなって。本当は通信制の高校に通って美容の専門学校に行きたい。けど、未成年だし、収入が低いし、親がいないし、いろいろ難しいです」
今も残る興行ビザ制度の影響
日本にフィリピン人女性が増えたのは1980年代後半から。群馬県一部地域では現在もフィリピンパブだらけである。
1980年代後半、タレントや芸能活動をする外国人の入国を許可する興行ビザの制度が始まった。芸能活動とは建前であり、全国各地にフィリピンパブが乱立した。
自国で貧しさに苦しむフィリピン人女性は、自国の家族のために日本で出稼ぎする女性が激増した。ダンサーや歌手として活動する興行在留資格で入国し、ほぼ全員が芸能活動をすることなく、資格外活動であるホステスをやらされた。そして「優しいフィリピーナ」は日本で大流行となった。
先日、私は日本で子ども2人を育てるフィリピン人シングルマザー(43歳)の聞き取りをした。彼女は22歳のとき、家族のためと親戚に説得されて日本行きを決断、来日して東北地方のフィリピンパブで働いた。
フィリピン人女性が日本のフィリピンパブで働くためには、興行ビザ取得、渡航、入国、住居の確保、所属する店の決定など、さまざまな手続きや準備が必要であり、自国と日本の人材ブローカーが介入する。当然、搾取の温床となる。
結局、人材ブローカーからの借金、渡航費、諸費用などいろいろ引かれ、週6日みっちり働いても、もらえるのは月9万円だけだった。月給9万円から5万円をフィリピンの親に欠かさず送り、日本ではアパートと店を往復するだけの最低限度の生活となった。
4回目の来日のときに客だった日本人男性からプロポーズされて結婚、出産した。10年の結婚生活を経て離婚。養育費はもらえず、食品工場で低賃金な肉体労働の収入だけで子ども2人を育て疲れ果て、「もう限界です」という内容だった。
人権的に問題がある悪しき興行ビザの制度は、2004年アメリカ国務省に「人身売買」と非難され、厳格化されている。
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