「正しいか正しくないか」が、いつの間にか個人の怒りや不快の感情の弁護人となっているのです。個人にとっての正しさは、全員の正しさではありません。歴史を見ても明らかなように、「正しさ」とは、極めて脆弱で主観的で、決して普遍的なものではなく、環境や事情が変われば、昨日の「正しさ」が今日は「正しくない」ものへと簡単に変わります。
そもそも「正しい」と「正しくない」の対立自体が本来は存在しません。「あなたの正しい」と対立するのは「別の誰かの正しい」でしかないのです。正義の争いには、立場の違いしかなくて、そこに絶対的正義なんてものは存在しないのです。
正義の名の下に、それ以外を駆逐するという行動の原理は、「正しいか正しくないか」ではなく、「感情」なんです。結局、あなたの怒りや不快な感情を正義という理論武装をして、その感情をもたらした敵をぶちのめして、安心を得ているにすぎません。これは「所属するコミュニティ」のもたらす光と闇でもあります。仲間意識は排除・差別意識と背中合わせなのです。
コミュニティの外に敵を作る
ところが、皮肉なことに、そうした排除すべき敵が一掃されても困るのです。コミュニティ内の仲間意識や絆を強化するのにいちばん手っ取り早いのは、コミュニティの外に敵を作ることです。敵がいることで、みんなが一致団結して協力できます。もし適当な敵がいなければ、仲間内から敵を捏造してでもつくり出し、これをみんなで攻撃排除することで仲間意識を醸成します。
二項対立には、正しいと正しくない、善と悪、好きと嫌い、ウチとソト、友と敵、美と醜、アリとナシ、新しいと古い……などたくさんありますが、いずれも後者がなければ前者は存在しえません。敵がいてはじめて友がつくれるし、古い物があるから新しい物に気づけるのです。
つまり人間とは、「安心したいから異質の相手をたたく」のではなく、「異質の相手をたたくことでしか安心を得られない」とも言えるのです。しかしそれは、本来、安心を得るための行動がいつしか互いに傷をつけ合う不毛な争いに陥ってしまうことを示唆します。
相手の持っている食べ物をただ奪い、その場で食することしか考えないのではなく、相手と食物の種を分かち、育てていく。そんな視点の多重化が必要です。
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