「東京パラ」で日本の障害者行政は変われるか 大成功した「ロンドンパラ」に学ぶべき視点
その言葉どおり、歴史をひもとくとパラリンピックの名前が初めて使われたのは1964年の東京大会だった。2018年10月、筆者はパラリンピックの歴史やロンドンパラリンピックのレガシーなどを取材するためイギリスを訪れた。「パラリンピック発祥の地」ストーク・マンデビル病院近くで、前述のブリテン氏に初めて会って、取材する機会を得た。
東京パラリンピックに尽力した日本人医師の功績

このとき、ブリテン氏は「1964年の東京パラリンピックが日本の障害者行政を大きく変えた」と指摘した。
その原動力となった人物として名前を挙げたのは、1960年にストーク・マンデビル病院でリハビリとしてのスポーツを学び、4年後の東京パラの開催にも尽力した医師の中村裕氏だった。中村氏は東京パラの翌年の1965年、大分県別府市に障害者の社会復帰と自立を目指す「社会福祉法人太陽の家」を設立した。
ブリテン氏は東京パラ開催と中村氏をはじめとする関係者の取り組みがきっかけとなり、日本は障害者が仕事をして自立することや、スポーツを楽しむことが可能な社会に変わっていったと評価している。
「日本では1964年の大会が終わった後に、太陽の家ができて、障害者が就労する場ができるという大きな現象がありました。今回の東京2020の後には、障害のある人たちがもっと社会に受け入れられるように、さらに大きな変化が起きてほしいと考えています」
ロンドン中心部を歩くと、地下鉄の駅には車いすが十分に入れるエレベーターが整備されている。路上でよく見かける黒いワゴン型のタクシーは、車いすでも簡単に乗ることができるタイプだ。このタクシーは2018年4月の段階で、ロンドン市内に2万台以上走っているという。
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